明治6年 <ベンジャミン・スミス・ライマン> 夕張炭鉱
ベンジャミン・スミス・ライマンは明治6年1月17日来日すると、東京芝に創設されたばかりの開拓使仮学校(札幌農学校-北海道大学の前身)において教鞭をとりました。
写真は、その時に写したもので学生の中に坂市太郎もおりました。
同年4月17日、北海道に向けて横浜を出航する。
3年に及ぶ北海道全島調査は、その名目こそ地質調査でしたが、地形測量すなわち地図作成という難行をともなう「道無き道を進む」苛烈なものでした。
多くの困難を乗り越えそれを完遂すると,新生明治日本の将来に順風を送る幌内炭田群(石狩炭田)の発見報告などとともに,1876(明治9)年5月10日,日本最初の広域地質図幅「日本蝦夷地質要略之図」を刊行して日本地質学史に金字塔をうちたてました。
夕張炭鉱 ⇒ ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。
北炭夕張炭鉱 ⇒ ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。
夕張炭鉱を発見したのはライマンの教え子坂市太郎です。