坂市太郎

1854年(安政元年)~1920年(大正9年)
夕張の石炭を発見した人

北海道の炭鉱は最も古いところでは幕末の日本海泊村です。箱館開港となり外国船が石炭を求め、白糠町の石炭を箱館奉行所は用立てしたといいます。
炭田は偶然見つけられたものばかりで、資源の開発で科学的に調査して発見するのは明治に入ってからのことでした。
夕張炭田を発見したのはアメリカ人のライマンと思っていましたが道庁技師の坂市太郎でした。

 

明治に入ると北海道開発のための人材育成に、東京芝増上寺内に開拓使仮学校を設けます。明治5年7月、美濃大垣藩の壬生義塾で学歴を身に着けた坂市太郎は、18歳で測地測量の生徒として私費で入学しました。
開拓使長官・黒田清隆は、学者たちをアメリカから呼び教授に迎え入れます。その一人が鉱山地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンでした。
開拓使顧問ケプロンの強い推薦で明治5年、36歳で来日します。

ライマンの講義はすべて英語で開講にあたって次のように学生に話します。

「日本の鉱山を開発すべく与えられた年月は3年間。3年で日本の利益になる答えを出さなければならない。従って、君たちには4~5年かかる各専門分野を短期間で習得してもらう。特に地質学は机上のものではない。実践して初めて活かされるものだ。必死で学べ」(右の写真が晩年のライマンです)

ライマンの分野は、地質学・数学・物理学・測量学・製図学・鉱物学など多岐にわたりました。
しかし、坂は入学から二か月後には学費を全額免除されるほど優秀な成績を上げます。そうして、一年半ほど経った時、開拓使からライマンに北海道地質測量の命が下りました。
目的は炭田・油田・有用鉱物の産地、水力の利用できる土地を見つける地質調査でした。
このライマン探検隊に助手として同行する人数は13名。その中に坂市太郎も選抜されました。

明治6年3月、北海道に向けて東京を旅立ちます。坂市太郎20歳でした。
探検隊は、アイヌの青年を道案内に雇い入れ、空知から上川~苫前~羽幌まで足を伸ばしていきます。
まだ、地質も鉱床も判然としていない未開地です。開発に値する候補地を特定するのは至難の業でした。更に、目の前に立ちはだかる直径1メートルもある大木の間を練り歩き、腰までつかる熊笹を踏み分け、熊の出没におびえながら必死で歩くこと数百キロ。
その後、奈井江、幌内、美唄、砂川などをくまなく調査し、現在の三笠市である幌内の炭田を発見しました。
更に、一行は夕張川を舟で渡りますが、激流のため遡ることは危険を伴いました。先頭を行く道案内のアイヌの青年にたしなめられ、ライマンはガックリと肩を落とします。
夕張川上流の炭田調査は断念されたものの、ライマン探検隊は北海道における地質・鉱床の調査をし、明治8年の暮れ東京に引き上げました。

ライマンは調査結果を「日本蝦夷地質要略之図」(18冊、合計770ページ)として明治政府に提出しました。
我が国初の地質図となり、同時に採集した岩石・鉱石・化石などの標本は8千個。(その一部は現在北大附属博物館内に陳列されています)
「幌内地方は石炭の埋蔵量が豊富。北海道開発の第一歩として至急この炭田を開き、石炭を運ぶ鉄道を敷設すべきです」というライマンの進言を受け、政府は幌内炭鉱を明治12年までに開坑し、さらに幌内~札幌~手宮(小樽)間に全国で3番目となる鉄道を開通するよう決定しました。ライマンは当初の予定どおり、明治9年アメリカに帰りました。

坂市太郎は中央省庁の官僚となり、工部省に身を置き、信州、越後、秋田の油田調査に携わり、明治20年に北海道庁の技師になりました。道庁は夕張の石炭を発掘しようと何度も送り出していましたが、いずれも失敗。

明治21年、坂が35歳の時に和人1名、アイヌの若者7名を雇い入れ、幌内炭鉱を出発。
前回の失敗から川ではなく陸地から夕張に向かいます。
奥地に進むにつれ、大木や熊笹は14年前となんら変わりませんでした。こうして進むこと1週間が経ち、ついに夕張の奥地、シホロカベツ川の上流にたどり着きました。

その時、坂は突然走り出し、指し示した先に鮮やかな黒いダイヤが頭を出して光輝いていました。それは厚さ7メートル以上に及ぶ石炭層(北海道指定天然記念物)を持つ、瀝青炭の大露頭でした。

明治21年、坂市太郎が発見した有機俐大炭田は、道内はおろか全国でも大きな話題となり、2年後には夕張採炭所が開設されます。
それに伴い、室蘭線・夕張線の鉄道も開通、採炭地の中心拠点となり、最盛期には、大小24の鉱山、人口も12万人を数え繁栄の一途を辿りました。

明治23年に坂は北海道炭鉱鉄道会社に出向となりました。
しかし、先進的な炭鉱関連の知識と経験は、この現場では生かせません。
明治25年に同社の出向から戻り、翌年道庁を退職。40歳で一般人となり、炭鉱開発の実業家となりました。
武士として生まれ、技術官僚として育ち、実業家になり大正9年に亡くなりました。