写真は冬の上士別市街地(大正時代)

大正2年4月1日に、上士別はそれまで属していた士別村から分村した。明治32年に植民地区画設定がはじまってから、団体の大規模な入植がつづき、16線市街をはじめ、川南方面、さらに奥士別方面へと開発が急激にのびていった結果でもあった。
上士別地区は戸数が820戸、人口5,476人にもなっていた。

大正2年は天候不順のため全道的に大凶作の年だった。
5月8-9日と二日間にわたって雪が降った。
加えて6-7月は曇天気の日が多く、北東の風が低温をもたらし農作物の育成が遅れたのだ。

9月14-15日の早霜で作物は収穫皆無の状態。
かろうじてジャガイモだけは収穫ができた。

〇大正2年は大凶作の年だった

しかし、近くにでんぷん工場ができ、じゃがいもをたくさん作付した三郷の人々は、決定的な被害をさけることができたが、その打撃は大きかった。
上士別村は分村早々、手痛い自然の脅威を受けたのだ。

麦もきびも、豆もとれないから、食べ物は、じゃがいも、かぼちゃ、とうきび、だいこん、そして馬の飼料用として作ったえんばくなどであった。
しかし、これらも底をつくようになると、松の皮をはぎ、中側の白い部分を炊いて、おかゆのようにして食べる人もあった。

私の祖父母一家は大正2年2月、十津川村の雪の中を出て北海道に向かった。

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父のふるさと/十津川村の家
油絵 2018年制作


祖父上家忠二郎は家族の布団と食料を背負い、祖母ハルは鍋窯を背にサダ17歳、義明11歳、重美10歳、正三7歳、そうして私の父由視4歳、ミサ3歳を連れて奈良県吉野郡十津川村大字小山手字片川の家を出発した。

ハルは五男富男を身籠っていた。

歩いて2日目に五條に着き汽車で神戸に向かった。小樽行きの船に乗り、小樽からは汽車に乗り換えて士別に着いたのは十津川を出てから14日目だった。