道立北海道文書館(もんじょかん)が、1960年代の半ばに民放テレビ局が制作した「新たに視聴区域となった市町村の紹介番組」のフィルムを保管していました。半世紀も前の65市町村の映像ですから、今は失われてしまった町や村の風景です。ネットに載せることはできませんので感想を含めて紹介します。

尚、このCDは現在「北海道立図書館北方資料室」にあります。
私が借りた時は「北海道立文書館」でしたが変わりました。

 

おびひろ 1963年(昭和38年) 24分 白黒 音声なし         

音声がありませんので、観ただけで多分そうだろうという感想になります。

十勝の野はかつてアイヌ人の居住地でした。寛政年間(1789年から1801年)に、江戸幕府の命で蝦夷地調査にあたった探検家たちにより、豊かな平原を持つオペレペレケプの名として知られることとなりました。しかし、市の開基は遅く明治16年になります。

映像は十勝の祖と言われる「依田勉三」の写真からはじまります。明治15年、静岡(西伊豆)の豪農依田家が設立した晩成社が、翌年入植したことにはじまります。慶應義塾に学んだ依田勉三が鈴木銃太郎・渡辺勝らと結成し、下調査の結果、移住地を下帯広と決定し13戸27人で入植したものです。
ところが、イナゴの大群やマラリアに苦しめられ、初年度は目的の1割も達成できませんでした。更に、交通・流通の不便と社内の意思統一がならず、この地での開拓は失敗に終わります。渡辺は然別に、鈴木は芽室の西士狩、依田は生花苗にと袂を分かつことになります。晩成社は実質的な成果を上げることはできませんでしたが、十勝の豊かな地を広く知らしめる役割を果たしました。このあたりのことは一切ありませんでした。
数名で写した写真がありましたが、これがおそらく晩成社のメンバーではないかと思います。

十勝集治監

明治25年、北海道集治監釧路分監帯広仮監が設けられ、囚人が開墾や道路工事に従事し町が開けていきました。
十勝、特に帯広は囚人の力が大きかったのですが、これもありませんでした。


明治38年、帯広~釧路、二年後に旭川~帯広間に鉄道が開通し町の発展となりますが、映像は駅が出ますが、帯広駅ではないかと思います。
明治35年町制、昭和8年に市制施行となりました。
駅前の商店街や市街地が写されています。昭和38年の帯広市街地です。藤丸デパート、広小路商店街、帯広厚生病院、帯広市役所、、市長も役所の屋上で市民と対話しながら広い市街地を眺めています。

酪農
明治乳業の工場があり、酪農家から牛乳を集めて「粉ミルク」を生産しています。

学生
帯広畜産大学と思われる学生が農業実習の風景です。馬や農業用トラックの運転練習、農業プラウの扱い方などの風景です。

日本高圧コンクリート工業
おそらく下水管などのコンクリート製品を生産している風景と思われます。

帯広神社祭り
帯広発祥の地に立つ「依田勉三の像」が写されます。この近くにある帯広神社の祭りです。

大型農業経営 
<八千代牧場>年間を通じて晴天の日数が多く降水量が少ない気象条件の中、早くから大型農業を行ってきました。十勝地方の政治・経済・文化の中心地です。
昭和32年に編入された川西・大正地区は有数の畑作・酪農地帯でマメ類・ジャガイモ・ビートの産地です。

八千代町には公共育成牧場があり、976㌶の総面積に乳牛・綿羊が放牧され、畜産加工も行っています。特産の豆類、乳製品を活かして「菓子のおいしい街」としても定評があります。