士別軌道株式会社

大正6年、上士別・奥士別からの木材搬出を目的として町の有力者大久保虎吉などが主力メンバーとなって、活馬による軌道事業「天塩川軌道株式会社」を設立したのが始まりだった。(軽便)

大正8年に認可がおり、資本金20万円でそのほとんどが町の商店主からの出資だった。大正9年、馬鉄による士別―奥士別間の軌道事業の営業を開始した。この年に士別軌道株式会社と社名を改めた。
更に、輸送力の増強をはかるため昭和3年蒸気機関車を導入した。以来33年に全線が廃止されるまでの30余年に亘り、軽便として住民に親しまれつつ、沿線住民の唯一の交通機関としての役割を果たした。

上士別駅はドル箱

上士別駅

軌道路線のドル箱は上士別駅で、材木・穀類を積み出し、日用雑貨・石炭・魚類の搬入などで賑わった。士別への乗降客も多く、駅舎は官公庁並みの立派なものだった。

 

大正10年(1921)4月、子供のみつえは一年生に進学した。地域の人々のおかげで儲けさせてもらったことだし、250円のオルガンを買って学校に寄贈を申し出た。
学校と言っても川南小学校の分教場で、児童総数が50数名だった。複式学級(2つ以上の学年をひとつにした学級のこと)で教師は2人、奥山という50歳近い初老の男先生と、20歳くらいの早野という男先生だった。
2人の先生は、「オルガンがあれば、分教場だけで学芸会ができます」と大喜びしてくれた。(上家の父は大正11年に川南小学校卒)

大正15年(1926)4月1日、南沢分教場となる。それまで川南小学校特別教授所だった。

大正15年で造林事業は打ち切られた。
人夫頭の仕事はなくなる、人夫もいなくなるので店の売り上げは半減した。

昭和2年(1927)、16線7号(3.8㎞)で店をやっていた「まんの姉ミツ」が「店を買わないか」と言ってきた。ミツの夫が巡査試験に受かって、旭川に行くことになったというのだ。7号なら戸数も多いので売り上げが期待できると転居した。    

昭和2年は金融恐慌がはじまり、銀行の倒産が相次いだ。景気は冷え込み、米、麦、いも、えんばくの値段は下がり、農家の懐具合はどんどん悪くなった。
多額の借金を残して夜逃げした農家もあった。

こうした災難続きの中で、長男忠芳はやせ衰えて、上士別の医者ではどうにもならず、旭川の小児科専門病院へ入院すると胃潰瘍と診断された。
12月30日に家に帰ったが、1月4日に亡くなった。

昭和3年1月6日、忠芳の死後、三番目の男の子武雄(本の作者)が生まれた。

昭和6年、恐慌はますます深まり、出口の見えない不景気となり、娘を身売りするような事態もおきてきた。
農民を相手の店も経営はいよいよ難しくなってきた。
昭和9年、16線5号に店を移した。40戸足らずの家しかなかったが半農半商の暮らしとなった。

母まんが肺結核になり旭川の甘粕内科に入院。入院費を作るために16線8号に買っていた水田5町歩、大和新団体にあった10町歩の畑を売却した。
さらに、16線10号の石ころの多い土地10町歩を売却し、大和新団体に10町歩の土地を買い引っ越した。

 

大和小学校

大和小学校は明治42年7月士別第四尋常小学校所属33線特別教授所として開校した。生徒数男女合わせて33名。大正2年に大和小学校と改称。
通学区間が変更され児童数が増えたため、昭和7年に増築、ピーク時の昭和30年には生徒数101名になった。

 

 

写真は成美地区にある吉野神社です