江差追分 浜田喜一
1917年(大正6)7月18日~1985年(昭和60)8月22日
江差追分を普及したプロの歌い手

江差追分は歌詞を伸ばしたり縮めたりしながら、2分50秒間ほどかけて歌う「こぶし」や「ゴロ」と呼ばれる節回しが特徴。

信州追分宿の馬子唄が越後を経て、北前船の船頭たちによって渡る一方、越後松坂くずしがケンリョ節として唄われ、これらが江差の風土にとけこんで生まれました。
寛政年間(1789-)に盛岡から来たケンリョ節の名手、琵琶師の座頭佐之市の作詞と編曲によって追分が完成したとされ、追分祖師の記念碑が江差の東本願寺別院境内にあります。

江差追分会館で開かれている道場で名人の指導で配布されている基本譜です。
民謡といってもソーラン節のような二拍子ではありません。独特なもので「かもめの~」の音階や音量は独自に作られたものです。 

芸者衆がお座敷唄として三味線の伴奏に合わせて歌ったものと、浜小屋と呼ばれる飲食店を中心にヤン衆や船員たちが投節として、野外で伴奏無しで歌っていたものがありました。
明治33年を境にニシン漁は途絶え景気はどん底に陥り、追分関係者が各地に離散していきました。この時、地元の江差の人たちは「江差の灯」をともし続ける意味で歌うようになりました。                               

六代目名人 青坂満

保存するために研究会が旗上げされ、芸者が減ったことから、いつしか三味線から尺八の伴奏になり、浜小屋節が主流となって変貌していきます。

大正から昭和に入ったころには、江差の看板として行事や来客の接待に欠かせない存在すとなります。
そうして、昭和10年に「江差追分会」が誕生。
しかし、戦争に突入し活動は中断。

追分会が再建されたのは昭和22年の夏でした。
町内の各所に「追分節教授所」の看板が掲げられ、若者の歌声が聞かれるようになりました。

 

 

 

浜田喜一(江差追分プロの歌い手)

戦時中の暗い時代にも江差追分を普及していたのが江差追分の歌い手、浜田喜一でした。
プロとして芸能活動を通じて全国はもとより国外にまで広めた人です。
漁師の家系でしたが、ニシンが去った後、船も失い、父も病気がち、唯一の楽しみは父が教えてくれる江差追分を唄うことでした。次第にのめり込み、その実力の高さから「神童」と呼ばれるようになりました。

大正11年、5歳で江差追分大会に初出場。その後函館での名人大会でも優勝。
13歳の時、旅一座に引き抜かれることになります。
自分の芸を試すために東京に出ますが、民謡の先輩から「大きな歌手になりたかったら、民謡で流しをやれ」といわれました。
それまでは民謡の大会で唄うだけで、好きな人々の中で唄うことで拍手喝采を得ていたのです。思い切って店で江差追分を唄いました。そうすると、民謡に全く興味のないような人も、自分の唄に拍手をくれたのです。

道の駅江差

昭和13年、22歳の時に追分大会で優勝。
レコードデビューし、自分の一座「かもめ会」を結成。かもめ会は踊りあり、漫才ありのバラエティに富んだ一座でしたが、江差追分には特別のこだわりがありました。「かもめ会」は、日本はもとより樺太やヨーロッパ諸国までにも至りました。
戦時中、旅芸人が来たこともない国後ではスパイ扱いされたり、また戦争で興業禁止令が出たり、テレビやラジオという時代の移り変わりによって、劇場に来る客を取られたりしましたが、彼は江差追分への情熱を捨てることはなく民謡の歌い手として、初めて歌舞伎座の舞台を踏むことになりました。

昭和52年、江差追分は北海道無形民俗文化財の指定を受けました。

喜一は昭和60年、68歳で亡くなりましたが、その弟子は千人以上。
江差のかもめ島に浜田喜一の銅像が建立することになります。浜田喜一は多くの人々に故郷江差の町のことを話していました。

「江差はいい町ですよ。海が青く、空気が澄んで、私はいつもその海を見て、潮の香りを嗅ぎながら育ちました。民謡巡業や、闘病生活の辛かった時、何が私を支えてくれたかというと、やはり子供の頃遊んだ江差の海を思うんですね。潮風に吹かれて、あの広いきれいな海に向かって、追分を腹いっぱい唄った。その情景を思い出すと、また力が湧いてくるんです。」
 
昭和38年からはじまった「江差追分全国大会」は、いまや57回を数え、民謡を志す者の最高のひのき舞台となりました。
予選会は全国各地でおよそ4千人。江差追分会館での決勝大会には350人が出場し、その年の日本一をかけて競います。
毎年、この大会前日には「始祖佐之市」の碑の前に追分愛好者が集まり、法要が行われています。