村橋久成 むらはしひさなり

天保13年(1842)10月 ― 明治25年(1892)9月28日 50歳没

鹿児島県出身 サッポロビールの生みの親

サッポロビールの生みの親「村橋久成」を、NHK大河ドラマに誘致しようという動きがあります。
1982年、第16回北海道新聞文学賞を受賞した田中和夫の小説「残響」がきっかけとなりました。
平成17年北海道知事公館前庭に村橋の胸像『残響』が建てられています。

道庁の赤レンガが完成したのは明治21年、札幌の建設はこれを起点に東に向かって進められ、現在のサッポロファクトリーの周りに工業団地ともいえる産業施設が建てられました。サッポロビールの前身である開拓使麦酒醸造所が作られたのは明治9年。この工場建設に全エネルギーを傾けたのが村橋久成です。

村橋は天保13(1842)年、薩摩藩の上級武士の長男として生まれます。
明治維新の3年前、23歳の時に薩摩藩第一次英国留学生(15名)としてロンドンへ渡り、海軍学、陸軍学などを学びます。
イギリスには「世界の工場」といわれた近代産業社会がありました。
ロンドンは、街路にガス燈が灯り、地下鉄が走る世界一の都市。ロンドン大学に学び、西洋文明に激しいカルチャーショックを受けます。1年間の留学生活ののち、慶応2年に帰国。この年は薩摩と長州が同盟を結んだ年であり、翌年は260年続いた江戸幕府が滅ぶ年です。

帰国から2年後の慶応4(1868)年に戊辰戦争に加治木大砲隊長として参加し、東北戦争を戦い終結後、黒田清隆らとともに蝦夷地へ渡ります。
箱館戦争では土方歳三率いる旧幕府と交戦、その後、榎本武揚に降伏することをすすめた立役者が村橋でした。これにより黒田清隆から絶大な信用を得、明治3年黒田が開拓次官に就任すると招かれて開拓使に入ります。
開拓使の最大の使命は、北海道に産業の基盤をつくることにありました。
村橋の夢は、かつてイギリスで見た近代産業を北海道で実現することでした。
ちょうどそのころ、地質調査をしていたお雇い外国人が岩内(現・岩内町)で野生のホップを発見します。
これが、開拓使による麦酒醸造所の建設計画へとつながっていきます。
明治8年、麦酒醸造所の計画が立てられますが、建設地は札幌ではなく東京でした。
この建設・事業責任者として抜擢されたのが村橋です。彼は建設地を東京ではなく札幌にと強く訴えます。村橋が雇った醸造技師中川清兵衛(新潟出身・ドイツで技術を学ぶ)は、ドイツと似ている気候の北海道が最適であると考えたのです。その最大の理由は氷でした。

「開拓使の使命は北海道の開発にある。ビール工場を作ることによって、様々な関連施設や交通、輸送手段などの整備が必要になる。それを推し進めるのが開拓使なのだ」が村橋の主張でした。
原料の大麦は、屯田兵が栽培したものを買い上げ、ホップとビール酵母は輸入に頼り、醸造所は作業を開始します。
しかし、北海道から東京まで物を運ぶのは、今では想像もできないほど困難な作業でした。ビールビンは、横浜や函館などの港町に外国人が持ち込んだビンの買い集め、再利用しかありません。
こうして苦心の末つくりあげたビールがはじめて東京に到着したのは、翌年明治10年6月のことです。
ところがビンの中には一滴のビールも残っていません。長旅でコルクから中身が全部吹き出していたのです。
開拓使長官の黒田は大恥をかき、村橋は再び輸送し、やっと政府や外国人に振る舞うことがきました。すると、肝心の味の方は素晴らしいものでした。ホップが多めに使われるために、苦味が強く、麦100%のコクがある本格的なドイツビールだったといいます。
多くの人に太鼓判を押されたビールは、明治10年9月大々的に売り出されます。ビンのラベルには、開拓使のシンボルマークである星が描かれ、「サッポロラガービール」と書かれました。
14年に開かれた内国博覧会で有効賞を受賞し、ビール生産はいよいよ軌道に乗り始めます。このころには、原料の麦やホップはすべて北海道産でまかなえるようになり、市民の間にも人気が高まり売れ切れが続出するほどでした。

明治14年、村橋は突然開拓使に辞表を提出 !!
明治14年は政治的に激動の年でもありました。大久保利通が暗殺され、さらに追い打ちをかけるように、北海道官有物払い下げ問題が巻き起こったのです。
開拓使廃止の事実上の最終通告が、黒田清隆に命じられ、多くの開拓使事業が払い下げられます。開拓使麦酒醸造所は、黒田清隆によって同じ薩摩藩出身の実業家、五代友厚に譲渡されようとしましたが、その兆候を感じていたのか村橋は1881(明治14)年に開拓使を辞職します。
直後に黒田の計画は「北海道開拓使官有物払下げ事件」として社会問題化しました。村橋はなによりも開拓使の廃止を許すことができなかったのです。
今やっと芽を吹いた新しい産業の芽を、なぜ摘み取り放棄するのか。幕府を倒し、明治維新、そして日本の新しい国造りに捧げられてきた無数の命は一体何だったのか。村橋久成39歳でした。

その後、一切の音信を絶ったまま放浪の旅にでます。故郷を捨て、家族を捨て、自分の過去を全て捨てて、どこでどう過ごしたのかは、今でも謎のままです。

1892(明治25)年9月25日、神戸市葺合村(ふきあい村、現在の神戸市中央区)の路上で、警官が1人の行き倒れの男を発見しました。
所持品はなく、下着だけの裸同然の姿。男は当初偽名を使ったが、その後「自分は鹿児島塩谷村の村橋久成である」と名乗りました。
三日後、病院で息を引き取りました。享年50歳。開拓使を去り、姿を消してから11年後のことです。
身元がわかると、黒田清隆ら縁のあった人々が葬儀を執り行いました。
開拓使麦酒醸造所は、明治19年に民間に払い下げられ、札幌麦酒会社となります。開拓使が官営として取り組んだ事業は、醤油・味噌・缶詰工場など全道に40カ所近くありますが、払い下げられて今なお継続しているのは「サッポロビール」だけです。