井上 清

1897年(明治30年)~1996年(平成8年)

現在も「札幌時計台の鐘」が鳴っているのは、井上清さんのおかげです。

明治11年、札幌農学校の敷地内に演武場として建てられたのが今の時計台。
当初時計はなく、小さな鐘が吊り下げられ手で鳴らして始業・終業のベルとしていました。鐘の音にと塔時計の発案をしたのは開拓使長官黒田清隆でした。

明治13年、ニューヨークのハワード社から取り寄せ時計台が誕生。明治14年、鐘の音が響き、時計を持たない住民は「もうお昼か」とかけがえのないものになりました。
明治25年、演武場は焼けた裁判所として使われます。
明治36年、公会堂としても使われました。
明治44年、北海道教育委員会は演武場の名称を時計台と変え、ここに図書館を設置。札幌でただひとつの公設図書館でした。
昭和に入って市の予算の関係で、時計は故障しても放置されていました。

生い立ち

井上清は明治30年恵庭市生まれ。
16歳の時に機械いじりが好きだったことから時計店に務めます。
昭和3年、16年の修行の後、32歳の時に狸小路で井上時計店を開業。

時計台の鐘が鳴らなくなっているのを、気にしていました。

昭和8年の秋、37歳。
時計台を通りかかり、時計の文字盤の下にある小窓のガラスが破れているのを発見。このままでは機械がさび付いてしまう。
札幌市役所に駆け込みます。たとえ無料奉仕とはいえ、時計台に入るには業務上の手続きが必要でしたが、必死の説得で職員は扉を開けました。

昭和14年時計台

塔の構造は三階建てで、一階が振り子の部屋、二階が機械室、三階には鐘が吊り下げられていました。


機械はさび付き、ほこりにまみれていました。


部品の一つ一つを見た時に、アメリカの技術が優れていることに驚きます。

機械のサビを何日もかかって落とし、さらに丹念に磨き上げ、油をさし、ふりこの調整もしました。


鐘を突く重りは200キロ、動き続けるには、それをワイヤーで巻き上げなければなりません。3日ごとに午後2時になると時計台へ行き、梯子を上りました。

昭和16年、44歳になると戦争に突入。
鉄で出来たものは集められましたが、幸いにも時計台の鐘はそのままでした。
ところが、時計台の建物に軍隊が泊まり込み、鐘は鳴らなくなりました。

昭和20年、戦争が終わり時計台に上りました。
二度目の修理に取り掛かり、時計台は次第に札幌の名物になっていきました。
昭和38年「私たちは時計台の鐘が鳴る札幌の市民です」という市民憲章が出来上がりました。

しかし、時計台の周りの建物は近代化が進む中で、時計台は移転すべきだという声が上がり始めます。
ビルの谷間に沈み、うらぶれた姿となっているため、円山公園や中島公園に移したほうがいいという案まで飛び出したのです。

これには市民が大反対。
「たとえどんなに巧みに再現されても、移されたものには生命はない、追憶でしかない」と訴え、札幌市議会で現在地に永久保存が決定されました。昭和41年のことです。

昭和56年、狸小路商店街の火災で井上時計店は焼失。
この時84歳でしたが、真っ先に持ち出したのが時計台の修理7つ道具でした。
その後、店は再建されますが、これをきっかけに長男に後を継がせ、彼は相変わらず時計台に上ることを生きがいとしていました。そして、85歳の時についに50年間守り続けた時計台の保守を長男に譲ります。
「打算ばかりがはびこる世の中ほど不幸なことはない」という気骨溢れる明治の井上は、平成8年99歳で亡くなりました。

時計の保守は井上清さんから和雄さん(平成26年3月引退)に引き継がれ、約80年間にわたって続けられました。
現在は後継者が受け継ぎ、時計は動き、鐘を鳴らし続けています。