長野政雄

1880(明治13)~1909(明治42)

逆走列車を、自らの体を車輪の下敷きにして乗客を救った人。

私が小学低学年のころ、鉄道は蒸気機関車でした。
冬に塩狩峠を越えて旭川に行くには、二連結の機関車でゆっくりと、しかし、すさまじい蒸気のはじける音と共に、イキを切らすように上っていくのです。その光景は音と共に今でも思い出すことができます。

塩狩峠にある、赤い屋根の家は三浦綾子が「氷点」を書いた時の菓子屋で、和寒町が旭川から移築して管理しています。代表作でもある「塩狩峠」の舞台となった「しおかり」駅は旭川から北へおよそ30キロ、天塩国と石狩国の境にあったことから「塩狩峠」と名付けられました。
古くから交通の難所として知られた標高272mの峠には、鉄道員長野政雄の殉職碑があります。

鉄道員殉職碑

明治42年2月28日夜、塩狩峠において列車の最後尾の連結が突如分離し、逆降暴走。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐より、クリスチャンたる氏の常に持っていた遺書発見せらる。『苦楽生死、ひとしく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ』これはその一節なり。30歳なりき。

 

生い立ち

明治13年、愛知県水稲村生まれ。父は代々藩に仕えた身でしたが、明治維新で家禄奉還し水稲村に移住。ところが父は3歳の時に死去。政雄は後見人として親戚に遺産の管理を任せましたが、裏切られ全財産を失います。
13歳で名古屋監獄の給仕として働き母と妹を養います。
16歳の時に判事に「法律の勉強をしてみないか」と言われ、判事の転任に伴い、函館・大阪に同行し昼は判事助手、夜は法律学校で学びました。
明治31年、大阪で貯金管理所登用試験に合格し判事官資格を得ます。しかし、この後すぐに体を壊し判事官の仕事は続けることができなくなりました。
このころ、親友にクリスチャンがおり、落ち込む政雄を度々教会に連れて行きました。熱心に薦められ大阪で洗礼を受けることになります。たまたま、大阪時代の先輩が北海道の国鉄に勤務していたことで、誘われて北海道に渡りました。18歳の時でした。

旭川六条教会

札幌運輸事務所で4年勤務したのち、明治34年、21歳の時に転勤で旭川運輸事務所に赴任。
仕事の熱心さを買われ、庶務主任となります。翌年には、旭川キリスト教会(旭川六条教会・左の写真)に日曜学校が設けられ、政雄はその初代校長に任命されました。北海道にきても、母親への仕送りを続けていたため、衣服は新調したことがありません。また粗食で大豆の煮物を壺に入れておき10日も20日も、大豆ばかり食べていたといいます。母親への仕送りと、教会への寄付金にあてていました。職場では夕方5時になると部下全員を帰宅させ、残った仕事を独りで片付け、それは深夜に及ぶこともありました。
ある時、仕送りや寄付金の多さに心配した友人が、「少しは自分のために貯金したらどうだ」と勧めると、「金は使えばなくなってしまう。だから、私にとっては宝ではない。本当の宝は、決して消えることのない自らの行いなのだ。その行いを続けていくことが、のちに自分にとっての大きな宝になるのだ」と言ったといいます。

明治42年2月28日、長野の隣人への愛が最終的に試される時がやってきました。その日の夜、彼は名寄から汽車に乗り、いつものように旭川の教会に向かっていました。
汽車が、塩狩峠の上り急勾配にさしかかったとき。最後尾の客車の連結器が突然はずれ、客車は前の車両から分離して、逆方向に急速度で走り始めたのです。もはや脱線転覆はまぬがれまいと総立ちとなり、救いを求め叫ぶ有り様に車内は大混乱となりました。

しおかり駅

その客車に乗り合わせていた長野は、すでに覚悟が決まっていたと見え動揺することなく、乗客を救助することを模索していました。
客車のデッキにハンドブレーキの装備があるのが目に入り、ただちにデッキ上に出て、ブレーキを力一杯締め付けました。客車の速度は弱まり、徐行程度にまでなりました。しかし、完全には止まりません。もしこのまま走り続ければ、この先の急勾配でまた客車は暴走を始めるかもしれない・・・・。「どうしたらいいのか」――これ以上ブレーキはきかない。

乗り合わせていた藤原栄吉氏によれば、そのとき長野がデッキ上から後ろを振り向き、一瞬うなずいて乗客らに別れの合図をした姿を目撃したといいいます。
次の瞬間、客車は「ゴトン」という衝撃とともに完全に停止しました。
乗客は外に出て、自分たちが助かったことを知ります。しかしその客車の下に見えたのは、自らの身を線路に投げ出し、血まみれになって客車を止めた長野の無惨な遺体でした。
客車内に残されていた彼の遺品の中には聖書と、妹への土産の饅頭などがあったといいます。殉職直後、旭川、札幌に信仰の「一大のろし」が上がり、何十人もの人々が洗礼を受けました。藤原栄吉氏も、感激のあまり70円あった自分の貯金を全部を日曜学校のために捧げたといいます。