栗林元二郎

栗林元二郎(秋田県から芽室町へ)
1896年(明治29年) – 1977年(昭和52年)

農業教育者。
農業専門学校『八紘学園(はっこうがくえん)』の創設者。

明治29年、秋田県雄勝郡川連(かわつら)村(現稲川町)の農家に生まれました。
雄物川の大水害で疲弊のドン底にありました。とくに明治43年の洪水の惨状は、今日でもなお生々しく残っているほどです。これらの洪水禍をきっかけに県南一帯に北海道移住熱が高まりました。

22歳の時に、村の青年たちがやってきて北海道移住の団長になってくれといいます。家督を継ぐのは長男だけの時代、頼まれれば嫌とはいえない性格のため二つ返事で引きうけました。
親にも村長にも反対されましたが、逆に郡長から激励の言葉と5円の餞別を贈られ、「よし、おれは村よりデカイ農場を作って見せる」と意気込みます。

大正8年、移民団一行は80名。さっそく北海道庁へ顔を出し、芽室町上美生(かみびせい)の土地を手に入れます。「すべて実行、なんでも実行」とつぶやきながら団員を督励し、3年目には200㌶の開拓を見事に成功させました。

北海道の移民担当

移民団長として開拓に成功し北海道庁は功労賞で報いました。
さらに北海道の嘱託として移民招致係になって欲しいと頼まれます。大正13年のことでした。
辞令を受けた元二郎は「活動写真をつくる」と言い出します。

当別町を開拓した伊達一門の映画

筋書は東北からやってきた一農村青年が北海道で開拓に成功し、道庁の表彰を受けるというもの。なんのことはない元二郎そのものの伝記映画でした。
主演は曾我廼家五郎、役者一行40名を札幌の円山公園に作ったオープンセットに缶詰にし、制作費1800円でPR映画を作ってしまいました。

この映画を担いで、元二郎は東北各県を興行して歩きます。
映画が終ると北海道移住を説き、クライマックスには伊達一族の北海道開拓物語で盛り上げます。戊辰の役で、悲運を一身に背負った東北の雄藩「伊達家」の開拓成功譚は、東北人の涙を誘い、大地への夢をかきたてました。

方向転換

大正14年の夏、腹膜炎で九死に一生の体験をし人生観を変えてしまいます。
こんな体になっては、村よりデッカイ農場は作れそうにない。
それならば若いものを教育して俺の夢を実現してもらう。
退院後、彼は独学で教員資格をとり、札幌の殖民学校農学科主任講師に転身しました。

並の開拓農民ではありませんでした。
裸一貫、無一文の身の上。彼は一計を案じます。第一級の人物を味方につける作戦にでました。

斎藤 実

目をつけたのは斉藤實(まこと)子爵。のちに総理になり、二・二六事件で暗殺される人物です。伝手を頼って元二郎は斉藤子爵の懐に飛び込みました。

どんな手段を使ったかは分かりませんが、実際に斉藤子爵の紹介状をもって帰り、北大から佐藤昌介(学長)、南鷹次郎、拓銀の松本頭取、池田北海道庁長官などの支援を受けることになります。
金がないから、ひたすら自分の信念を説くだけの戦法で、「狭い日本で農業を続けているような時代ではない。海外に雄飛する青年を育てよう」。


元二郎の考えに賛同する斎藤實らの資金援助や北海道帝国大学の教授陣の助けもあり、当時札幌市の隣町だった豊平町の月寒に82haの土地を手に入れ、1931年(昭和6年)に『八紘学園』を発足させました。
二年後には、地主の吉田善太郎が所有していた土地を買い取り、さらに校地を広げます。

月寒の丘に八紘学園誕生

学園創設から7年の歳月をかけて磐石の基礎を作り上げました。この頃の八絋学園を卒業した者の中には、のちに南米に移り農園主になる者も多くいました。

学園の名物の一つにジンギスカン鍋があります。

つきさっぷジンギスカン

これは昭和19年、月寒の二十五連隊が樺太(サハリン)に移動するとき、栗林が壮行会を開いたことに端を発します。兵隊たちにはヒツジの肉であることを伏せ、モンゴル帝ジンギスカンの「雪原の闘い」をはなむけの訓話としました。

羊肉の食習慣は、大正時代にさかのぼりますが、ジンギスカンと呼びはじめたのは栗林の訓話によるものと伝えられています。
タレを後付けで食するジンギスカンのルーツは、旧満州国や樺太などで食されていた野戦料理でした。元二郎は、旧満州より北海道月寒地区に移住する際に、その料理を食していた鍋を持ち帰り、その鍋で羊肉を調理し、食べていた事が発祥とされています。

1948年、公職追放により栗林は教職を追われますが、後に学園長に復帰しました。

1953年に、『八紘学園』内に会員制のジンギスカン料理店『成吉思汗倶楽部』を発足させます。
この料理店は今日も敷地内で営業されています。

栗林元次郎が手八丁口八丁の人生を終えたのは、昭和52年2月。
いまも残る栗林邸には、そんな彼の人生を物語る数々の遺品が保存されています。