琴似屯田兵ことにとんでんへい

琴似屯田兵屋入口

琴似屯田兵村  

屯田兵制度は、明治6年11月、北方警備と北海道開拓を目的とした黒田清隆開拓使次官の上表文が允裁(いんさい=聞き届けられ)を受け、翌年「屯田兵条例」が作られたことに始まります。

その条例に基づき、後に北海道全体で37の屯田兵村がつくられることになるのですが、その先鞭といえる日本初の屯田兵村が札幌の琴似につくられました。

箱館戦争が終わり(明治2年5月11日)、新政府は蝦夷地を北海道と改称(明治2年8月15日)して開拓使をおき開拓に力をいれていきます。
開拓にたずさわったのは、一般移民、囚人、屯田兵となりますが、屯田兵は軍隊であり、平時は開墾に従事しているものの、有事には銃を持って戦う軍団でした。
当時、敵国といえるのが不凍港の確保など南下政策をとっていたロシアです。
特に当時の樺太は、日露雑居でロシア人が日本人の村を襲うことが絶えませんでした。

屯田兵配置図

明治8年5月7日「千島樺太交換条約」によって脅威はやや薄らぎますが、北方に対する牽制で屯田兵を配置する必要性があったわけです。

明治8年の琴似兵村に始まり、明治32年の士別・剣淵兵村までおよそ25年間に渡って行われました。
初期の兵村は、札幌本府の警備と北辺の守りを固めるために、全道の主要港湾の防備を目的としていましたが、後期になると営農を重視して、石狩川の流域に集中して兵村が置かれます。その数は、全道38村、総戸数7,371戸、兵員およそ39,000人でした。 

屯田兵村第一号は琴似

琴似の地が、なぜ日本初の屯田兵村に選ばれたのかといえば、この地は安政年間より調査が進められ開墾の適地として注目されていたからです。兵村が出来た明治7年には既に本願寺移民などの一般入植者が開墾をしていました。
また、開拓使本府に近いこと、小樽にも近く物流の監視にも適していました。何よりも、第一号屯田兵村を確実に成功させなければなりませんでした。

入植者の人選

東北地方の武士達でした。主に仙台藩亘理、次いで会津藩。仕官は「官軍」と呼ばれた薩摩藩の人達で、東北地方の人たちは当初兵卒(軍隊でもっとも下の位)として扱われました。

琴似屯田兵を出身地別にみると、一番多いのが仙台藩亘理の人々です。
仙台藩は東北の覇者、伊達政宗の末裔で、加賀藩(前田家)、薩摩藩(島津家)に次ぐ大藩でした。政宗時代には、会津(黒川城)すらその領土の中にあり(現在でいえば宮城県の南半分、福島県の浜通りを除く部分、山形県の南部、新潟・栃木の一部までが領土でした)、軍事指揮下にある隣国を加えると、およそ東北の半分が伊達の勢力だったことになります。(幕末期は62万5千石、実高100万石といわれます)

琴似神社

琴似神社

会津藩祖保科正之とともに琴似神社に祭られている伊達成実は亘理藩の藩祖です。
亘理を治めていた成実は、一大名のように自らの土地と家来を持ちながら、同時に重臣として上部の伊達藩の中に属していました。
ちなみに、成実は伊達政宗のいとこにあたり、片倉小十郎とともに年少の頃から政宗と行動を共にしてきた政宗の最高の重臣でした。
このような大藩・仙台藩をもって、文久2年(1862年)京都守護職に任命された会津藩(藩主松平容保)討伐の先ぽうに当たらせようと考えたのが新政府でした。

明治政府の東北処分 

東北戦争後、仙台62万石は、半分以下の28万石に減封。会津に至っては、23万石から3万石に減封の上、下北半島の斗南(むつ市田名部)へ遠流のように移封と、明治政府の東北処分は過酷を極めました。会津藩士が移住した斗南の地は、多くが火山灰の不毛地か、泥炭地に葦が群生する湿地帯で、公称としては3万石ですが、実収は7500程度であったといわれています。
この地で、なにより大変だったのは食料の確保でした。はじめ一人一日三合の扶持米が支給されることになっていたのですが、凶作などの理由で、支給が減らされたり、遅配が続いたのです。このため、大豆ばかり食べるので「はと」あるいは「干菜(保科にひっかけて)も食えぬ」と地元民からかわれたという話や、餓死をまぬがれるため犬の死骸なども食べたという記録も残されています。
また仙台藩においても事情は同じでした。

仙台藩は移封こそまぬがれましたが、大幅な家禄制限と知行制度の廃止を余儀なくされ、一門一家には一律の俸禄制がとられました。
かつて2万4千石だった亘理は、一門の扱いで58石5斗。これで、7800人といわれる家臣を養うのは不可能でした。このように東北の藩士達は、賊軍の汚名を着せられ、日々の生活の糧もままならぬまま、明治という近代を迎えたのでした。

こうした状況の中で、明治政府の北海道開拓使は、明治8年「札幌郡琴似村屯田兵」を召募する通報を「宮城」「青森」「山形」の三県、及び北海道の館藩に発送しました。

札幌郡琴似村屯田兵の募集

明治8年の募集は「仙台」「斗南(旧会津)」「庄内」という東北戦争に破れた藩が対象であることは明らかでした。

屯田兵制度は北方防衛、開拓、士族の授産が目的だったといわれていますが、まず新政府としては、官軍にはむかった東北地方の士族を北海道へ移住させ、不平分子の芽をつみとろうという意図があったのです。 
召募の条件は、18歳から35歳迄の身体強壮な者とされ、応募者には、家屋のほか、鍋、釜、寝具などの生活用品、農具が支給され、入植から3年間は給助米があるとされていました。
屯田兵に志願した人と残る人との間には「水杯を交し、お互いの無事を祈った」「泣きくずれて別れの言葉も言えなかった」などという逸話が数多く残されています。

最初の屯田兵、琴似へ

最初に琴似へやって来たのは、 斗南藩と庄内藩(酒田県)の人々でした。
明治8年5月13日、青森港へ出頭せよとの通知があり、第一陣223名に「乗船の注意書」が手渡されます。注意書には乗船の順番のほか「便所の以外の場所で、大小便をしてはならない」といった細かな事まで記載されていました。

移住者の多くは、蒸気船に乗るのは初めての経験。また、これから向かう北海道のことなどほとんど知識がなく、ましてや「琴似」というのが、一体どんな場所なのか想像もできませんでした。
翌14日午後3時に一行をのせた通済丸は青森を出航し、2日後の16日に小樽に入港します。彼等はその晩、小樽の宿屋、芝居小屋などで一泊しましたが、この時、これから入居する兵屋の番号のくじ引きも行われました。
翌17日、小樽を徒歩で出発した一行は、銭函を経て36kmを踏破、琴似に入地したのは午後6時頃と記録されています。琴似に着いて彼等がまず見たのは、整然と建ち並ぶ兵屋でした。

第二陣の到着

屯田兵の一日

第一陣が琴似に入って4日後に、仙台亘理の92戸が入地し兵村は急に賑やかになります。
亘理の人々は既に屯田兵制度に先立って、主従一体となった胆振有珠の開拓を進めており(この開拓が、今日の伊達市の基礎を築くことになります)、その意味では、北海道の事情について知識があったものと考えられます。 

ともあれ、これにより兵屋59番から66番までに酒田県人、67番から115番までに斗南藩の人々、106番から206番までに仙台亘理の人々が落ち着いたことになります。
現在でも琴似神社の春祭は、この最初の屯田兵が琴似に入地した日を記念したものです。

琴似屯田兵が現役としての役目を終えるのが明治24年3月。16年間にも及ぶ兵役でした。このあと予備役が28年6月までの4年、それを終えると後備役に編入され、徴兵令の施行に伴い、明治37年屯田兵制度廃止を迎えます。

琴似兵村は琴似村になりました。
屯田兵制度のスタートからゴールまでを経験したのは琴似兵村だけです。
琴似に初めて屯田兵が入地した明治8年から50年後、大正13(1924)年の調査によると、琴似の旧屯田兵在村者は30戸とされています。
その年、琴似入植50年を記念して記念塔が立てられました。
琴似神社の境内に立つこの記念塔には琴似屯田兵240名すべての名前が刻まれています。