木田金次郎 きだ きんじろう

明治26年7月16日―昭和37年12月15日

岩内出身の画家 
有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」のモデル

札幌芸術の森野外美術館は1986年(昭和61年)に開館しました。
駐車場に近い森林の中に、北区12条の北大前にあった有島武郎の住宅が移築されました。有島の文学資料を含めて、家族の写真などが展示されています。二階建てで、くの字で上がる階段の踊り場に一枚の絵が飾られています。

開館の30年前に訪れた時に、この踊り場で立ち止まりました。
誰の絵なのかも知りませんでしたが、これが木田金次郎との出会いでした。その後、岩内町に木田金次郎美術館がオープンとなり、杮落としとして札幌東急デパートで木田金次郎展が開かれます。
札幌から岩内町までは2時間30分ほどかかりますが、その後何度も訪れることとなりました。
昭和29年の岩内大火で作品1600枚が消滅してしまいます。美術館には100枚強と絵は少ないのですが、学芸員と一緒に解説を聞きながら回る機会も得ました。札幌開拓の村で「有島と木田」の講演会があり、久しぶりに学芸員の話を聞いていると、木田が何故有島に魅かれたのかが分かりました。

生まれ

明治26年、ニシンで賑わう岩内郡御鉾内町で漁師の家に6人兄弟の次男として誕生しました。7歳ころから絵に興味が湧き始めます。父親の漁師仲間に日本画をたしなむ者がおり、その漁師が描いた「松竹梅」の絵に心打たれたからです。
幼少のころは不自由なく過ごし尋常高等小学校を卒業後、上京し開成中学、京北中学に通います。京北中学時代から本格的に絵を描き始め、上野の展覧会にも通うようになります。
ところが、事業が行き詰まり1910年(明治43)学校を中退し家業を助けなくてはならなくなりました。

しかし、木田は東京からすぐに岩内に戻らず札幌の郊外で絵を描き続ける日々を送っていました。この時に、札幌で開催されていた展覧会(北大の美術部・くろゆり会)で有島武郎の絵と出会い感銘を受けることとなります。
有島は北大の教授として招かれ、現在の菊水(豊平川)に住んでいたのですが、木田は偶然にも有島の家を見つけました。

明治32年前後は日本の近代美術にとっては非常に重要な転換期でした。
それまでの写実的な絵画にとってかわり、ルノアール・ゴーギャンなどの印象派の作品が流れ込んでいました。
木田は東京でこれらの作品に足しげく通っていました。また、有島は学業を終えると米国・西欧に留学し、いち早く新しい美術の作品を目にしていたのです。
有島が描いた作品は、この新しい印象派の作風が表現されていたのです。

有島との出会い

油絵や水彩画を抱えて有島宅を訪ねてきた不機嫌そうな中学生がいました。
「君の画がなんといっても私の反感に打ち勝って私に迫ってきた」
こんな二人の出合いから「生まれ出づる悩み」は書き出されます。
家業を助けながら絵を描くのは難しく、有島に東京で仕事を探す手伝いをしてほしいと頼みます。しかし上京を志す木田への返事は冷静でした。
「東京に来た処が知識上に多少うる処あるばかりで腕のうえには何等の所得がないと思います。その地に居られてその地の自然と人とを忠実に熱心にお眺めなさるがいいに決まっています」。木田は岩内にとどまり、独自の画境を築くことになります。

木田金次郎と有島武郎

「生まれ出づる悩み」は、一人の漁師が画家を目指す物語。
家業の漁の合間に絵筆をとり、やがて絵筆一本の生活になるものですが、生涯、この地を離れず、ただ黙々と故郷の山と海を描き続けます。

7年後の大雪の夜、たくましい漁師になった木田が狩太村(ニセコ町)の有島農場にやってきます。
画家になろうかと迷う木田、キリスト教を捨てて文学者の道を模索している有島。二つの迷う魂の触れ合いが白樺派文学作品を覆っています。

1923年(大正12)6月に有島武郎が44歳という若さで、人妻であった波多野秋子と心中して亡くなった事は、木田にとっては大変なショックな事でした。
結局そのことが引き金となり、漁業を止めて画家として生きていく決心をしたと言われています。
1928年(昭和3)には満州や朝鮮に写生旅行に行き、その後中国大連で個展を開きました。1941年(昭和16)には、利尻、礼文島へ写生旅行に行き、翌年には山田フミと結婚しています。
1945年、後志美術協会や全道美術協会の創立に参加しますが、出品はしませんでした。1953年、札幌市にて初個展を開催します。

岩内大火

1954年(昭和29)、洞爺丸台風による「岩内大火」により岩内町の市街地が全焼。
それまで描き続けた1600点の作品が灰になりました。この時61歳。

1956年北海道銀行頭取である島本融の著書「銀行生誕」の挿絵を描いたことが縁で、翌年には北海道銀行東京支店にて、木田金次郎油彩小品展を開きました。またこの年、北海道新聞文化賞を受賞しています。
最後まで精力的に作品作成に力を注いでいましたが、1962年に脳出血のため逝去しています。享年69歳でした。

1994年、岩内町に木田金次郎美術館が開館。
その設計を長男の木田尚斌が手がけました。美術館の場所は1986年(昭和61)まで旧国鉄岩内駅舎と操車場の跡地であり、尚斌さんはそれを生かすことをコンセプトに設計しているので、建物をよく見ると操車場のイメージになっています。
木田金次郎の人脈で岩内町を訪れ講演を行った水上勉も読んでください。