岩村 通俊(いわむら みちとし)

天保11年6月10日(1840年7月8日)
      - 大正4年(1915年)2月20日)

明治時代に農商務大臣、鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた官僚、政治家。
現在の「札幌ススキノ」の元を造った人。

 

 

生い立ち

天保11年(1840年)土佐藩・岩村英俊を父に、長男として土佐国(高知県)宿毛で生まれ、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学びました。

明治2年(1869年)、29歳で開拓使新設に伴い箱館開拓判官として函館に赴任。開拓使の首席判官であった島義勇の後を受け、明治4年(1871年)開拓判官として札幌の開発継続に着手します。
しかし、島義勇が予算の使い過ぎで解任されたことを教訓として、札幌建設には手を付けようとしませんでした。ところが、札幌が北海道の首都になることを聞きつけた商人たちは、全国から集まってきました。そうすると宿屋が建ち、飲み屋ができ、風呂屋までできます。更に勢いが付き、雑貨屋、呉服屋と次々と並ぶようになりました。これを見ていた岩村は札幌建設に着手することを決めます。

札幌建設

函館で五稜郭の建築を請け負った中川権左衛門を大工棟梁に置き、彼を通じて函館、東京などから千数百人を集めて作業にあたりました。
市街地を4キロ四方とし、道幅も細く設定しました。通りの命名は、当初は今の駅前通を小樽通りと名付けいましたが、その後京都にならって条・丁目に改めました。

着々と進めましたが、ひとつ難題がありました。それは火災の問題です。住民が住む粗末な草小屋は、薪をたいて暖をとることによって、草ぶき屋根に燃え移り大火事になることも多かったのです。岩村は開拓者たちに、お金を貸すから燃えずらい家を建てることを提案しますが、誰一人従う者はありませんでした。

御用火事

明治5年、「草小屋を取り除く」というお触書を出し退官覚悟で、御用火事と呼ばれる放火を決行します。官庁にあった草小屋を焼き払い、それから民家を全て焼き払うという強行手段に出たのです。
住民の中には、家財道具を持ち出す前に焼き払われてしまった人もいました。
岩村がまわりの非難を振り払ってでも行った御用火事によって、街並みもきれいに整えられ、火事などの災害はほとんど無くなりました。札幌の消防隊はこの時設置され、以後は火災が減ったといいます。

1872年(明治5年)、北海道の老舗百貨店丸井今井(現・三越伊勢丹ホールディングス傘下)の創業者今井藤七は21歳の時に札幌入りを果たし、創成川畔に小さなかやぶきの小屋を買い入れ、小間物商「今井商店」を開業(丸井今井の前身)しました。

こうして札幌の開発は急速に進み、岩村は次の事業に取りつかりました。
土木作業者のために北海道で初めての官庁公認の遊郭を設けることでした。この事業も人びとを驚かせました。
当時の札幌は男の数が多かったため、毎日のように婦女暴行や人夫同士の暴力沙汰が起こり、札幌の治安は手が付けられない状態にありました。
岩村はこのような様子を見て、大切な労働者をこのままにしておけないと悩んだあげく、彼らに娯楽の場を与えることを思いついたのです。

岩村は開拓監事である薄井龍之に、200m四方で歓楽地を造らせ、薄井の名を一字とって「薄野遊郭」と名付けました(由来には異説もあります)。東京から芸者数十名がこの「すすきの」に呼び寄せられ、殺風景だった札幌の街並みが、一気に華やかになりました。
すすきのには労働者だけでなく、高級官僚も多く訪れたため、今でいう官官接待も頻繁に行われました。こうして、男たちに生活の潤いが出来たため、治安も安定するようになりました。

辞職

明治6年(1874年)、札幌の建設も軌道に乗り始めた時、突然辞職させられます。原因は開拓長官黒田清隆との衝突でした。
元々性格合わなかった二人は、ことごとく意見が衝突し、ついに岩村は東京に帰されてしまいました。

明治6年7月、佐賀県権令に任命され実績を挙げ、中央に召還され工部省出仕となり、後任の佐賀県権令に弟の岩村高俊を推挙し許されます。
明治9年、山口地方裁判所長を経て、明治10年(1877年)西南戦争が起こり鹿児島県令として赴任しました。
岩村
はこの時、敵将である西郷隆盛の遺体を軍部の了解を得て鹿児島浄光明寺に丁重に葬ったといいます。

鹿児島県令としても実績を挙げ、元老院議官・会計検査院長に昇り、明治15年(1882年)には沖縄県令となります。
沖縄県令の後司法大輔となり、北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛けました。

これが認められ明治19年(1886年)に北海道庁が設置され、岩村通俊が初代長官に任命されました。

赤レンガ庁舎を建設し、産業の復興、交通網整備に努めました。
また、旭川に天皇陛下の「離宮」建設計画を提唱したのも岩村でした。
明治21年(1888年)長官を永山武四郎に交代し元老院議官に就任。

農商務次官を経て明治22年12月24日、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任。
明治29年、男爵を叙爵し華族に列せられ、明治33年、朝鮮京釜鉄道会社が設立され常務理事に就任。

大正4年2月20日、東京市小石川区(現在の文京区千石)の自宅で死去。享年76歳。

岩村通俊の功績を称え、旭川市の北海道神宮末社開拓神社・上川神社に祀られ、旭川市常磐公園・札幌市大通公園・札幌市円山公園に銅像が建立されています。

写真は旭川市の上川神社境内にある「上川離宮予定地」です。