文化2年(1805年) – 明治10年(1877年)

備前国(現在の岡山県)出身の僧侶。
札幌市南区の定山渓は、彼の名に由来しています。

生い立ち

備前国妙音寺繁昌院6代目修行僧の次男として生まれ、幼名を常三といいます。大柄で力も並外れ17歳の時に、全国行脚の修行僧となることを決意します。
父は別れの際に「山のような人物になるのじゃぞ。どっしりと何事にも動ぜぬ大きな人間になれ」「再び、この門をくぐろうと思うでないぞ。行け」

五流尊瀧院での修行

常三は吉井川沿いに南に下りました。この一帯には多くの寺があり、それを総まとめにしている五流尊瀧院を目指します。(現在も倉敷市にあります)
途中で目の前にはだかる大きな山を顔見知りの僧に聞くと「あれはそなたの山よ。常山(じょうざん、つねやま)という」父はもしかすると、この山に見立てて、常山のような人間になれといったのか。

断崖を駆け上がり、滝に打たれ、断食をして厳しい修行を5年間繰り返し22歳になった年、旅立つ日に新たな決意をしました。「仏を背負って人々の救済に尽す身、どこにいても山のようにあれと言った父。あの常山を見立てて、明日から常三をやめ、「じょうざん(定山)」と名乗ろう」

倉敷を後にして北へ

倉敷を北上しながら20年間布教活動を行い、人々に説法を説きます。
すでに40代、風貌も年相応のまるみを帯び、6尺近い大男で太鼓腹に長い胸毛、丸顔で大きな瞳。大きな石を取り除く大力、それでいて小さな子供も良くなつきました。
秋田を拠点として10年あまりを東北地方で布教していましたが、再び北に向かう決意をします。
それは、和人にとって蝦夷地は松前を中心に海岸線沿いにわずかに開かれている土地、仏の功徳も知らぬ人々が大勢いいるはず、行かねばならないと考えたのです。

蝦夷地へ

1853年(嘉永6年)、48歳の時に青森から御用商人の船に便乗して蝦夷地へ渡りました。世の中は、アメリカ艦隊ペリー率いる艦船が浦賀沖に到着し、黒船騒動が起きていた時代でした。
松前は、想像していたより大きな城下町でした。松前で布教を行ったのち江差に向かいます。そこで、観音寺が廃墟になっているのを知らされ村人と寺を再興。
更に北に向かいます。乙部から熊石を抜け、大成に着いた時、ここで人々のために山道を切り開くために滞在が長くなりました。
太田山大権現という、西蝦夷地で一番大きな寺がありましたが、参拝するには、激しい波風を受ける岬を小舟で横切らなければならず、まさに命がけの参拝だったのです。

松浦武四郎との出会い

1856年から定山の指導で開削工事が行われ、翌年には人一人が歩けるだけの山道が出来上がりました。この時、幕府御用掛の松浦武四郎が通りかかり「お坊の行為は賞賛に値する、と話し箱館奉行所に開削の功績を報告しています。
瀬棚で6年暮らし、57歳になった定山は大成を後にして小樽に向かいます。

1866年(慶応2年)、61歳の時に小樽の張碓(はりうす)で沸かし湯を営んでいました。明治維新の2年前。世の中は新しい国をつくろうという動きの中で、血なまぐさい事件が続発していました。

温泉

定山渓の天狗山

そんなある日、定山坊のところにアイヌの若者が飛び込んできました。温泉の話でした。翌日、若者の案内で張碓を出発。険しい山々を越え、たどりついた先は、辺り一面硫黄の匂いが漂っていました。ふと見ると、傷ついた鹿が湯浴みをしています。
定山は錫(しゃく)を打ち鳴らして喜び「ここで人びとを救済し衆生済度の施しのため生きよう」と固く誓うのでした。張碓(はりうす)の鉱泉を後に、湯元のそばに草ぶきの小屋を建て、刈分け道づくりにも励みながら幽谷にただひとりで耐え、5年余の歳月が過ぎました。

湯守り

定山渓二見公園

時代は蝦夷地が北海道へと激動するなか、明治新政府は開拓使を設置、北辺の開拓を急ぎます。開拓使・島義勇(しま・よしたけ)や岩村通俊(いわむら・みちとし)に出会った定山坊は温泉開発を熱心に懇願。さいわい岩村判官に認められ、明治4年(1871)浴場・宿泊所が建てられ、自らも「湯守り」に任ぜられ扶持米を給される身分になりました。

この年の10月、東本願寺による有珠(うす)新道の開削が温泉場を経由して、平岸から本府に通じ、はなはだ客往来には便利になりました。あわせて新道完成を検分のために来た副島種臣(そえしま・たねおみ)・東久世(ひがしくぜ)開拓使長官に対面します。

定山渓と命名

定山坊の衆生済度(しゅじょうさいど)の施(ほどこし)に激讃を受け無名の渓容に「定山渓」と命名されました。

明治8年、戸籍法が定められ、すべての人が姓名を義務付けられました。
定山は新たな姓を名乗ります。「美泉定山」美しき温泉の湧き出る山渓に居を定めるという意味でした。もう1つのしあわせを得たのは、平岸開拓に入植した旧伊達藩士ゆかりのキンという41歳の女性をめとり、70歳を間近にして長い巡錫の旅を終えました。

そんな定山が自分の死期を知り、突然行方をくらましたのは明治10年の冬でした。

張碓の山中で病気のため死去。享年73。
その死は定山渓まで知らせが届いておらず、長きに亘って「行方不明」扱いとなっていました。

定山源泉公園

定山源泉公園は、定山渓温泉を拓いた美泉(みいずみ)定山(じょうざん)の生誕二百年を記念し平成17(2005)年に開園しました。
定山が温泉と出合った風景を再現したものといわれています。
「美泉定山の像」のほか、「足湯」や、源泉を利用して温泉たまごを作ることが出来る「おんたまの湯」などがあります。
ただし、公園には駐車場がありませんので車で行くには不便です。立派な公園ですが、近年の温泉客はホテルから浴衣姿で出かける姿も少ないので、この公園を知らずに帰ってしまいます。
公園にはさまざまな広葉樹が植えられており、春は桜、夏は深緑、秋には紅葉に包まれた足湯が楽しめます。この公園は「第15回緑のデザイン賞」で国土交通大臣賞を受けています。

写真は定山渓にある定山寺で、隣に定山渓神社があります