前田真三

1922(大正11)~1998(平成10)

日本の写真家。
上高地、奥三河、富良野などで風景写真・山岳写真を撮影。
特に、美瑛の丘を一躍有名にした人です。

生い立ち

大正11年、八王子の恩方村で、父親は山林業を生計とし終戦の翌年まで村長を勤めていました。
真三は中学になるころには野鳥に興味を覚え、さらに飼うことにのめり込んでいました。八王子工業高校の2年から3年に進学できなかったほどでした。数百羽の野鳥を飼い、習性を知り、自然に対する実体験を重ねました。
2人の兄がカメラを持っていたために、鳥やまわりの風景を写し、土蔵の中の暗室で現像をしていたといいます。
発足まもない日本野鳥の会に入会し、学内弁論大会で「野鳥と共に」という演題で、原稿なしで体験を語り優勝します。

昭和17年、21歳の時に拓殖大学を卒業し、館山海軍砲術学校を経て海軍少尉としてスマトラ島へ赴任。昭和20年、中尉となるもスマトラ島で終戦を迎え、イギリス軍の捕虜となりました。
昭和23年、(株)ニチメンに入社。商社マンとして仕事を探してきては、それを勝手に仕上げるというやり方を通した前田は、正しく評価されないことに憤りを覚え上司に楯突きます。一匹狼的存在でした。
28歳で結婚し、世田谷に新居をかまえます。長期休暇を取っては、山登りをしながら風景写真を撮ることに生き甲斐を感じていました。

昭和35年、知人から南アルプスにある「丹渓山荘」の山小屋を紹介されます。
休みのたびにこの山荘に通い、樹木や山・渓谷などの写真を撮るようになりました。しかし、写真に熱中しても、カメラ雑誌を読むこともなし、コンテストの応募にも全く興味がなく、写真仲間と論議を交わすこともありませんでした。それは彼が、自身のために写真を撮っていたからでした。

昭和40年、前田は転勤の辞令を破り捨て異動拒否は2回目でした。
妻に「明日から会社には行かない」と告げ、17年に及ぶ平社員生活に終止符を打ちました。43歳でした。
退職の2年後、写真を貸し出す会社を設立。社名は「丹渓」と名づけました。
北アルプスの丹渓山荘で得た写真の精神を忘れまいと付けた名前です。
アマチュア時代のネガは使い物にならず、新たなポジを用意するため、昭和45年、全国的な制作活動に明け暮れ、年間6万キロを歩き各地の写真を撮り続けます。時代は高度経済成長の真っただ中で、独自の視点で捉えた風景写真は次第に認められるようになりました。

昭和46年、鹿児島県の最南端・佐多岬から北海道の宗谷岬まで、列島縦断撮影旅行を3か月かけて行いました。その帰り道、旭川から富良野に至る国道237号線の美馬牛峠付近の丘の上に立った時、前田は「これこそ新しい日本の風景だ」と、魂を揺るがすほどの感動を味わったといいます。
以来22年間、美瑛の四季は、彼のライフワークになりました。

美瑛(びえい)町は明治27年頃から開拓がはじまり、明治33年には神楽(かぐら)村から分かれて美瑛村が誕生。現在の風景は、先人が山を切り開き、起伏が多い土地をならし、火山灰に埋もれた土地を耕し、寒さに耐えられるように防風林を植えたためです。

拓真館

何度も足を運んでいるうちに、廃校になった小学校の存在を知ります。
ある時、美瑛町役場の人に「あの校舎をこのまま放っておくのですか」と質問すると「何か良い利用方法がありますか」と逆に質問され「写真ギャラリーでもやってみましょうか」と冗談半分に答えました。

昭和61年、64歳の時に写真集「丘の四季」を出版した時に、美瑛町役場から「役場でも全面的に応援しますから、ギャラリーの件、ぜひやって下さい」という連絡が入りました。迷いましたが、ギャラリーとして使用する体育館と教室の工事をはじめ、並行して小さな住宅を新築しました。
昭和62年7月10日。ジャガイモの花が咲きそろう頃、正式に開館。
初めて美瑛の丘に出会ってから16年目の夏でした。ギャラリーの名前は「拓真館」。この地区が「拓進」であったことと、真三の真を当てて「写真を拓く館」とし地元の人たちにも馴染みやすいものとしました。

前田は写真について、次のように語っています。
『風景写真を撮るうえで、何が一番かというと「風景を見出す」ことだと思っている。私は写真家としてのスタートが遅かった分、ごく一般的な風景であっても、そこに自分なりの発見や特徴、工夫を盛り込みたいと常に考えてきた。誰もが撮るようなものを、同じように撮っても無駄だと、写真を始めた時に直観したのだ。そのためにはまず撮ることである。よく見、よく撮ること。風景写真の場合はこれに尽きるのではないかと思う。見るうちに撮るうちに、次第に風景がおのずと見出せるようになるはずだ。借りものの視線ではなく、自分なりの眼で風景を見出した時、初めてその人の作風というものが生まれてくるのだと私は思っている』
平成10年、76歳で亡くなりました。その前年、拓真館の入館者は開館10年で200万人を超えていました。