明治3年、樺太専任の開拓次官であった黒田清隆は、現地ロシア官吏との関係を調整した後、北海道を視察して帰京。樺太は3年保たないとし、北海道開拓に本腰を入れなければならないと新政府に論じました。
明治4年、米国・欧州を旅行した時に、米国の農務長官ホーレス・ケプロンに北海道開拓最高顧問に赴くことを承諾させ、多数のお雇い外国人招請の道を開きました。
帰国後、開拓長官東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立ちます。
明治7年、陸軍中将となり北海道屯田憲兵事務総理、参議兼開拓長官となりました。
主役がいなくなった明治維新後
北海道の開拓は、明治維新後の日本再生の縮図といえるでしょう。
考えてみれば、明治維新に導いた主役は、その後の改革には皆亡くなっていました。長州藩の吉田松陰・松下村塾の優等生高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛、土佐藩の坂本龍馬などなど。
維新後の日本国の骨格を作ったのは、当時海外視察をしていた者や脇役で動いていた人物が中央の政治に躍り出たのです。
初代総理大臣の伊藤博文ですら松下村塾では末席の人物でした。何のための維新改革であるのか、100年先までのビジョンを語る者がいなかったのです。
お雇い外国人に助けを求めることは悪くはありませんが、判断をするのは日本人です。
幕末に大友亀太郎(二宮金次郎の代行)が北海道開墾に派遣されました。日本人の開拓プロとして、最初に来道した人物でした。新政府となり、大友亀太郎は大いに不満であったのでしょう。小田原に帰ってしまいました。
明治維新の新政府は東京での指揮でした。蝦夷地は、元々アイヌ民族が先住民として生活をしていたところです。現地で指揮をとらなければ、実情は把握できるものではありませんでした。
探検家、松浦武四郎も新政府に判官の命を受けましたが蝦夷地への命令が下されず東京待機のため辞令を突き返してしまいます。
また、「アッシ判官」と呼ばれた松本十郎は、黒田清隆が探し回りますが厚田のアイヌ部落から出てきませんでした。
榎本武揚にいたっては、ケプロンと対立し論争となり、大いに黒田を困らせ、ついに榎本を開拓使から外してしまいます。
また、官立学校教育の道徳に宗教(キリスト教・ウイリアム・スミス・クラーク)を持ち込んでしまったことで、鎌倉時代から培ってきた日本人の思想が簡単に中に浮いてしまいました。
欧米かぶれと言われてもしかたがなく、これは太平洋戦争後も同じことが起きました。
明治維新以後、日本人の思想に大きく根付いてきた悪しき傾向といえるでしょう。
ケプロンは東京に滞在していたので北海道訪問は3回だけでした。
しかし、彼の人脈で揃えた各分野の技術者たちの意見をまとめ提案をします。そのおかげで、中々進まなかった開拓事業は進みました。
大きな事業となったものは3つあり、これらに、お雇い外国人の技術指導が全面的に関わることとなったのです。
第一の事業は、札幌と函館をつなぐ道路の建設です。日本で外国式に作られた最初の車道でこれが札幌本道です。(現在の国道36号)
北海道の中心を札幌と決めたので、最大の町である函館との連携を重視。開拓使予算の1/10にあたる100万円の投資でした。
第二の事業は、官営工場を作ることでした。移住した人達に安く生活物資や生産資材を供給することです。また、加工品を生産して販路をつくることでした。
全道に40ヶ所以上の官営工場の建設。
第三に農学校の開設です。明治5年4月に、開拓使仮学校を東京に開きます。鉱物・地質・機械・化学・動植物などの学問を官費生50人、私費生50人の生徒でした。これが、明治8年7月の札幌農学校として発展していきます。
1868(明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者として2690人のお雇い外国人が確認できます。
この中で北海道の開拓使は78名の外国人を招きました。各分野に、ケプロンの人脈で呼びよせ6割がアメリカ人となり、その内、半分は民間の教師でした。
開拓使の国別内訳はアメリカ人48名、中国人13名、ロシア人5名、イギリス人4名、ドイツ人4名、オランダ人3名、フランス人1名です。
ケプロンの報酬は、今でいえば総理大臣よりも高いものでした。
明治4年の時点で大宰府三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月棒は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円。その他フルベッキやデュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年までの平均では、月棒180円とされています。
ホーマス・ケプロン(67歳) 開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問として日本に来たのは明治4年7月。帰国が明治7年5月なので、4年ほどの滞在でした。
ホーレス・スミス・クラーク(50歳)明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の5月に島松の駅逓で「Boys, be ambitious」と別れの言葉を残し、自分を誘った新島譲(同志社設立)に会って帰国しました。
短い滞在でしたが、この二人の影響で北海道開拓は決定的となりました。