伊達邦直

天保5年9月12日(1835年11月2日) – 明治24年(1891年)1月12日)

仙台藩一門・岩出山伊達家領主。
明治維新後は北海道開拓に身を投じ、現在の当別町基礎を築く。

亘理伊達家十五代で有珠郡伊達村(現・伊達市)開拓の伊達邦成(くにしげ)は実弟。

当別町は石狩管内の北にある町で、札幌から札沼線で石狩川を渡ると「石狩太美駅」「石狩当別駅」と続きます。車では国道337号で50分ほどで「石狩当別駅」に到着。伊達邦直たちが入植したのは「石狩当別」になります。
石狩当別駅から歩いて15分ほどで、当別伊達記念館の「伊達邸別館」があります。この建物は明治13年の建築と言われ、多くの名士来村の際に宿泊・懇談と、村政執行のための会議室として使用したものです。
入り口の廊下には、訪れた人たちの名前と月日が掲示されています。

戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟に参加した宗藩の命により官軍と交戦。
山形で勝ち戦功を上げたが、味方の多くは官軍に下った為、敗れ朝敵とされます。戦後、それまで一万四千石あった禄高を六十五石に減封され、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪されました。
侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられますが、邦直は彼等が路頭に迷う事を憂います。

吾妻謙

家老の吾妻謙らと相談し、私財を処分する資金で新政府の推し進めている北海道開拓を太政官に願い出ます。

願は許され明治2年石狩国空知郡(現在の奈井江町)の支配を命ぜられました。

その年の12月、邦直は家臣に命じ現地を調査させ、その結果を元に翌年自ら北海道に渡り調査を行いました。
政府から指定された入植地は極めて大雑把な指定で,具体的に何処を開拓するかは現地機関である開拓使との交渉が必要でした。

空知郡では開拓の見込みが立たないことから、海岸近くの厚田を望みますが断られます。叶わず再度家老の吾妻謙が太政官に申し入れたところ、「何を言うか。朝敵が不届き千万」と吾妻が自宅謹慎を命ぜられる始末でした。

231号から旧道に入ると道端に「伊達邦直主従の入植碑」がある

しかし、交渉の末、ようやく厚田郡繋富(シップ・石狩市厚田区聚富)の荷揚場を借用する事が認められます。

第一陣出発

岩出山で希望者を募り明治4年3月2日に北海道へ向けて出発。移住者は約180人。

ところが、繋富は土質が悪く砂地が多いため作物は育ちません。船で運んだ食糧等も着かなかったため、一同は困窮を極め開拓使に嘆願したところ、同地を視察に訪れた開拓使長官東久世通禧より開拓地を移ることを許されます。
吾妻謙等に代替地の調査を命じたところ、当別が適しているとの結論に至り、開拓使より許可を得ました。

第二陣出発

伊達邸宅

当別への移転は明治5年を予定し、邦直は岩出山に戻り再度移住者を募ります。
第2回の移住者は182人で第一陣と合流し当別の開拓に当たりました。

移住者の中から若者6人を選んで開拓使東京官園に送り込み、新農法を学ばせます。
畑作だけでなく、養蚕や製麻、西洋果樹の栽培などが奨励され、ことに麻はこの地の特産品になっていきました。(麻は亜麻のことです)

第三陣

明治12年、邦直は吾妻を伴って故郷に戻り、第3回移住者を募ります。250人に及び移住させました。
この年当別では新たに戸長を設ける事となり元家老の吾妻謙が就任しました。

開拓使当別詰所設置に伴い邦直は同年7月に開拓七等属・開拓使勧業課当別在勤を命ぜられます。
明治14年2月26日准陸軍少尉に任命され、3月には開拓七等属兼務となり従六位に。
明治15年には所属が陸軍省となり、1885年(明治18年)5月陸軍屯田兵少尉。
以後も各開墾地の見分を行うが、1891年(明治24年)1月逝去する。

当別神社

翌年8月旧臣等が内務省に阿蘇神社(後の当別神社)創建を願い出て、邦直が祀られる事となります。
同年10月には孫の正人が邦直の北海道開拓に掛る功績により男爵を授けられ華族となりました。

1915年(大正4年)11月には邦直に正五位が追贈。

1940年(昭和15年)、皇紀2600年を記念し北海道開拓神社に伊達邦直と吾妻謙が合祀されました。