秩父別(ちっぷべつ)町の由来は、アイヌ語のチクㇱペッ(我ら・通る・川=通路のある川)からの転訛とする説があります。

拓魂碑

明治28年、土佐丸に乗船して屯田兵とその家族が富山などから小樽港に上陸しました。
この年に東西秩父別兵村にそれぞれ100戸入植しています。

屯田司令部は欧米式農業を推奨し、米作りは厳禁でしたが、明治29年植田栄太郎らが密かに米作を始めます。
翌年には東旭川兵村から多量の種子籾を購入し各戸で試作を行い、天候にも恵まれ成果を得ました。
それに勢いを得て、第二中隊長の英断で試作許可も下り秩父別川から導水、水稲耕作も次第に広まっていきました。

 

兵役が解除された後、村営事業となり、明治37年に灌漑工事が竣工します。
明治32年頃乳牛が導入され、8年後にはリンゴの栽培もはじまりました。

国見峠からの眺め

戦後、開拓が遅れていた秩父別原野は国営の灌漑排水事業もおこなわれ、雨竜川上流に雨竜・鷹泊ダムも完成。

泥炭地原野でしたが、土地改良も進み、一面の水田地帯となりました。

 

 

空知総合振興局管内の北部、石狩平野北端・雨竜平野の北部に位置し、町域内は東部の中山地区周辺をのぞけば平坦。雨竜川が町域の北から西にかけて流れ、沼田町などとの境界線になっています。