北村は2006年3月27日、栗沢町とともに岩見沢市に編入されました。
旧北村は、岩見沢の北にある村という意ではなく、1893年に同地に農場を開設した北村雄治の「北村」から取られた村名です。名付け親は、吉田松陰門下で内務大臣の品川弥次郎です。

この地に和人が住むようになったのは明治15~16年のころです。ビバイノタフと呼ばれていた石狩川の屈曲するところに滝本嘉助らが居住したのがはじまりでした。北村の北側に樺戸監獄があり、脱走する囚徒の見張りをする傍ら漁猟を行っていたのです。

山梨県鏡中条(現若草町)の北村雄治は父の急死で若くして稼業(酒造り)を継ぎましたが、二度の火災に遭遇したことから、有益な事業を興して国家の為に尽くそうと考えました。
明治27年、石狩川左岸一帯の原田種雄の返却地など140万坪の貸下を受けて北村農場を開きました。

北村温泉

妹婿である北村都八も小作人の信頼が厚く、毎年襲い来る石狩川の水害をも乗り越えて開拓をすすめました。鏡沼からヒューガルポンプで揚水して水田作りを試みたり、牛の飼育を試みるなど、地域の中心となって活躍します。
明治33年、岩見沢村から分かれて「北」村が誕生する基盤を築きました。

その後、病気で倒れた雄治の意志を継いで、弟の黽(びん)が農場主となり、明治43年から4年間は自ら戸長として村の発展に尽力します。
綿羊の飼育やホームスパンなどにも力を入れ、末弟の謹もホルスタインを導入するなど、北村兄弟は村の農業や行政にも大きく貢献しました。

夢あふれる情熱米

月形町との境界となめ石狩川の水を利用した農業が基幹産業で、耕地面積の大半が水田の米どころです。これは、この村の地形とも関係しています。
村全体は山地や丘陵などが全く見られない坦々たる平地で、北村の最も高い場所は標高15.6m。逆に最も低い地点は6.9mで、その高低差は8.7mに過ぎません。
2千㌶の米を処理できる安心安全のための品質チェックと一貫した管理システムを導入した米乾燥調製施設「夢あふれる情熱米」が注目を浴びています。