2006年(平成18年)に虻田町と洞爺村が合併し洞爺湖町となりました。
あぶた町名の由来は、アイヌ語のアプタペッ(釣り針を作る川)、ハプタウシ(いつもウバユリの球根を掘るところ)とする説があります。
18世紀末に外国船が蝦夷地に来航するようになります。
1796年に英国船プロビデンス号が虻田沖に現れ、松前藩は工藤平右衛門らを派遣し対応に当たりますが、幕府内は慌ただしい動きになります。
1800年に幕府は勇払(苫小牧)に八王子千人同心を送り警備に当たりますが、四年後にその任を解き原新助(同心頭の弟)を虻田の牧場支配人として着任しました。
1822年に有珠山が噴火、熱泥が大量に流出し多くの和人やアイヌ人が死亡する災害がありました。その被害のため、かつて幕府の会所が置かれていた地から現在の虻田町市街地付近に移されました。
明治20年、現在の大滝村に入植をしていた橋口文蔵が、虻田郡に未開地約600町歩の貸し付けを受け、大農経営に着手します。
明治24年にはホロモイに愛知県人の加藤泰秋子爵が、橋口農場を譲り受け農場経営を行いました。
このホロモイが昭和6年に月浦と改称されます。
(月浦は原田知世・大泉洋の「しあわせのパン」ロケ地になったところです)
明治39年に温泉が発見され、現在では有数の温泉地となっています。
昭和52年に有珠山が噴火、翌年犠牲者も出たことから大規模な防災工事が行われ、火山科学館を建設して当時の記録を集大成しています。