2006年(平成18年)虻田町と洞爺村が合併し洞爺湖町となりました。

とうや村名は、アイヌ語でトヤ(湖水の陸岸)に由来します。
「トヤ」は、洞爺湖北岸周辺を指す地名で、当地区を指す通称として「向洞爺」(むこうどうや)という呼び名があります。

香川県人開拓

洞爺村は旧丸亀藩からの移住者で開拓が始まりました。
明治16年、旧丸亀藩士三橋政之は香川県那珂多度郡長を務めていましたが、生活に困窮する人民を救うため北海道移住を決め職を辞めました。明治20年、実の弟間宮光貫ら22戸76名と向洞爺に移住。
その2年後にも第二次団体移住民80余戸が入植しましたが、霜害で被害を受け明治22年この地を変換し、洞爺湖畔に移転しました。明治30年に現在の京極町に旧丸亀藩士が京極農場を設置した時に、5戸27人を送り開墾の指導を行っています。

明治34年、財田で水田の試作が始まり、第一次大戦景気の中、穀倉地帯のこの地は好況で独立機運が高まっていたこともあり大正9年虻田町から分村しました。

大正4年ごろ鉱石を発見したことから、大正14年幌別川の奥で洞爺鉱山が本格的に採掘を始めましたが戦中に閉山しました。

浮見堂

今は、セルリー・赤しそが全道一の収穫量を誇っています。
その他バレイショ・レタス・スイートコーンなど野菜を中心とした畑作経営が主力。

洞爺村は対岸の虻田町・壮瞥町のような観光地は少ないのですが、産業の神様として知られる聖徳太子が祭られている浮見堂の周辺一帯は公園になっています。