開港場の箱館には英語の教授所やフランス語の私塾も設けられ、ロシア語はロシア領事や司祭が普及に尽力し、まことに多彩な町となりました。

箱館に入った西洋文明は数多く見られます。
西洋型造船、五稜郭を代表とする西洋式築城、西洋式農法、洋館建築、ガラス窓家屋、ストーブ、キリスト教の渡米、コーヒーの普及などなど、現在の函館が観光都市として人気があるのは、幕末の西洋文化が残っているためです。                                  

箱館奉行の中で武田斐三郎が果たした事業は重要でした。
その一つが弁天岬台場と五稜郭の設計です。弁天岬台場(砲台)は安政3年(1856)に着工して文久元年(1863)の完成まで七年かかりました。
皮肉なことに、この「弁天岬砲台の威力」が発揮されるのは外国の艦隊ではなく、箱館戦争の内戦時でした。明治29年に取り壊されるのですが、壊すのさえ大変な作業だったといいます。

函館といえば五稜郭ですが、築城は弁天台場の翌年(1857)に着工しています。当初から弁天岬台場に費用がかかり予算削減となります。
そのために、武田が最初に設計したものは五稜郭の外側に半月堡(はんげつほ)とよばれる台場がつくられるものでしたが、この築城は一部しか作れませんでした。

築城の最大の課題は、箱館奉行所を箱館山麓では対外戦の時に大砲で狙い撃ちにされる危険から、低地の亀田役所土塁に移すためでした。
さらに、予算の関係で亀田川の水を引いた掘の割りは、土壁ですませたところもあります。
ただし、どこから攻められても城側の死角がないこと、城壁をよじ登っても侵入不可能な利点がありました。旧式日本式築城の最後が福山城(松前城)であるとすれば、新式様式築城の五稜郭が日本最初のものでした。旧式の最後と新式の最初のものが同時期に併存するところに、北海道の特徴があるといえます。