松前藩の開戦

寛文9年(1669年)6月14日にシコツ近辺で、アイヌ民族が和人を襲い殺害された話は、シラオイ(白老)アイヌが6月21日に福山(松前藩)に知らせてきました。

知らせが福山に届いた時、住民はあわてて津軽・南部に逃げようとしました。
松前藩は脱出を禁じ、城下近辺に柵を巡らして警戒に当たります。
とりあえず兵を派遣して砂金掘りの要害・国縫(くんぬい)を守備させ、亀田および熊石方面にも派兵しました。
6月25日、松前藩は使者を江戸の北条正房のもとに派遣し、同時に、東北の諸藩に鉄砲や大砲、弾薬の援助を要請します。

松前藩家臣は100人足らずのため、2000人のアイヌに対抗するには、漁師も鍛冶屋も、商人もなく、みな藩兵に含めて槍や刀のけいこをはじめたのです。

7月26日、松前藩家老蠣崎蔵人を隊長として第一陣250人あまりをひきいて、まる5日かけて国縫に到着。
ここで食い止めなければ、一気に松前に雪崩れこんでくる背水の陣でもあります。国縫には大きな砂金場が開かれ和人が多数入り込んでおり、松前軍の多くは砂金掘りの鉱夫で、綿入れの衣服でアイヌの毒矢を防ぐようにしました。

蔵人は、内浦湾西岸一帯をとりしきるセタナイ(瀬棚)首長「アイコウイン」を陣に呼びよせます。松前藩との接触も多く保護も受けていました。
「われらの陣で働く者には、応分のほうびで報いる。そのかわり敵対すればどうなるかはいうまでもあるまい」。
アイコウインとすれば、コシャマイン以来200年にわたる屈辱を注ぎたい気持ちと、万一敗れた時に受ける報復の恐ろしさに揺れ動きます。そうして、アイコウインは蔵人の酒をうけるのでした。

蔵人は国縫の金堀りと、アイコウインのコタンの男たちを総動員して、国縫川の左岸に長大な柵を作らせました。

ほどなく、江戸から駆けつけた旗本松前泰広が合流し戦いの指揮を執ることになります。総勢600人を超え、この時からシャクシャインの蜂起はアイヌ民族と松前藩ではなく徳川幕府との戦いとなりました。

写真は現在の国縫川