蝦夷地に渡った和人は交易によって力を伸ばし、渡島西南部の小豪族となり沿岸に館を築いていきます。
館というのは中世の城で、土盛で囲み敵との戦いに備えた作りです。
西は花沢館(現在の上ノ国町)から東は志海苔館(しのりだて・現在の函館空港の近く)まで、海岸沿いに12の館が作られそれぞれ館主がおりました。

現在、発掘されて館が保存されているのは花沢館と志海苔館の2ヶ所です。

花沢館は山岳に作られたもので、地形を利用した館です。
この館主が下北半島の安東氏です。
志海苔館は、道路工事の時に偶然見つかったもので、掘と土塁をめぐらせた方形の館から大量の磁器や鉄製品が出土されました。その中には、珠洲焼・越前焼の大甕3個に入れられた37万枚の古銭が出てきたのです。この銭は中国の渡来銭でした。

館主の勢力が増大すると、当然のことながら先住のアイヌ民族の生活領域を脅かすようになり、ついに15世紀の半ばから一世紀に渡る戦乱の時代が続くことになります。

この時代の最大の戦いが、1457年に起こった「コシャマインの戦い」でした。