この地に和人が住居を構えるようになったのは、1635年に海辺川(うんべかわ)の東金山で採金が開始されたことが始まりでした。
しかし、シャクシャインの乱(1669年)後鉱山は閉鎖となります。

様似・幌泉両郡は油駒場所として蠣崎(かきざき)蔵人(シャクシャインの乱が起きた時の松前藩家老)が所有していましたが、その後1799年に幕府直轄領となり二分して様似場所と幌泉場所になりました。 

1806年に蝦夷三官寺の一つ等樹院を様似に建立しました。
これは北辺警備のために幕府が奨励した蝦夷地への移住、そうして定住する人たちの安住のためでした。
しかし、新時代になると勤皇派の住職が榎本臣下に責められ広尾に出弄し自殺するという事態も起きます。この寺は明治18年に廃寺となりましたが、現在は場所は移動しましたがお寺は復活しています。

明治18年、青森県人の一家が来住、本業の狩猟の間に農耕を行いました。
明治22年に海辺に石川県輪島の橋爪善蔵が数名を連れ農民として移住し、三年後には富山の漁民の移住でカレイ手操網法が伝わり、更に二年後には茨城から出稼ぎで来た漁民により、捕獲器でホッキ漁も伝わり漁業に活気が出てきました。

明治27年に富山県から20戸余が様似に移住します。
農民の移住であったため漁業主体で顧みられなかった農業ですが、漁民にも農耕意識を与えることとなりました。
明治30年代には馬産が広まり、日高産牛馬組合も設立しています。

明治28年、様似川の支流、現在のアブサリで水上善之助が水田試作を始めました。これがこの地の稲作の始まりでした。明治30年代後半ごろから農業も軌道に乗り始め、大正期には土功組合も設立して水田も本格化しました。

アポイ岳に高山植物

中部にあるアポイ岳は濃霧と特殊地質により、昭和27年に高山植物群落が国の特別天然記念物として指定されました。

山麓にはファミリーパークやキャンプ場も設置されています。

 

様似町の旅(エンルム岬)はこちらです。