せたな町は、平成17年9月1日に北檜山町・瀬棚町・大成町の3町が合併し、久遠郡せたな町の合併特例区の一つ「大成区」となりました。
たいせい町名は、昭和30年に久遠村と貝取澗村が合併した際、町の発展を願って名付けられたといいます。

長磯海岸 国道229号の海岸線。『奇岩ロード』小熊が親熊に手を差し伸べている。

1637年福山城(松前城)本丸から出火、重臣の厚谷新下貞政などが身の危険を冒し藩主を救出するも厚谷は絶命しました。
藩主はこの功に報い宇須辺知一円を知行地として与え1704年には厚谷四五平が請負人となり運上屋を置き支配人を配置、久遠場所の誕生となりました。

1719年西蝦夷地(日本海側)への追鰊が緩和されると、ニシンを求めて和人の出稼ぎが多く訪れるようになります。
1840年には爪網、1849年には建網を使用する者が現れ、ニシンの漁獲も著しく増加しました。

明治に入ると、従来からの者はそのまま定住。
出稼ぎ者も東北・北陸から移住しはじめ人口が飛躍的に伸びました。
明治13年、久遠・奥尻・太櫓・瀬棚4郡役所が設置。
しかし、その翌年から不漁となり、農業経営に明るい林顕之を部長として赴任し、漁民に馬鈴薯を積極的に奨め難局を乗り切りました。

太田神社 灯台

明治38年にはニシンに見切りをつけ、スルメイカ・スケソウダラなどの漁を開始し、農業に活路を見出し大豆・小豆の生産や水稲栽培にも取り組み始めました。

北海道最古の山岳霊場太田山を筆頭に歴史をしのばせる文化財が多く、加えて海岸線には親子熊岩や柱状節理の雄大なチラチラ岬など造形美を堪能させる景勝の地です。