明治43年4月に公布された軽便鉄道法は、地方交通の安上がりな速成をめざした鉄路でした。軌間寸法や勾配の制限も穏やかで出願手続きも容易でした。
ところが、会社や事業が主体となるため敷設をめぐって係争が絶えませんでした。

定山渓鉄道(じようざんけい) 2

豊羽鉱山が産出したのは金、銀、銅、鉛などですが、中心になるのは銀です。
鉱山景気で定山渓温泉は豊羽鉱山の娯楽場の役割を担って形作られていきました。
しかし、湯治場から札幌の奥座敷としての温泉行楽地になるには鉄道が必要でした。

簾舞(みすまい)には帝室林野管理局の御料農場655町5反があり、185戸の小作人がおりました。また、6000町歩の御料林があり、森林伐採が始められており木材や農産物の輸送手段も問題になっていました。

一方、設立された定山渓鉄道は難航していました。当初申請時の路線は、苗穂ー定山渓でしたが、これを白石ー定山渓間に変更。更に、豊平川の左岸沿いに南下して石山で豊平川を渡り右岸沿いに定山渓に至るでしたが、大正2年8月の大洪水で困難となり、豊平川を渡らずに白石ー定山渓間に変更しました。
路線変更の許可が下りた大正5年4月、用地買収に取り掛かりますが、これが予定通りにはいきませんでした。月寒坂下に予定していた停車場を豊平に変更。
牧場内の横断を予定していた真駒内では、種畜場の反対で迂回路と変更が相次ぎます。

工事着工後1年6か月後の大正7年10月に完成しました。
白石ー定山渓間を上下3往復の運行、所要時間は1時間30分でした。国鉄払下げのタンク機関車2両と定員26人の木製2軸客車2両、それに貨車13両。

昭和4年10月には東札幌ー定山渓間27.2キロを電化し、定員100人の大型電車2両を導入し、一日上下15往復、所要時間50分に短縮され、これが人気を呼びました。

写真は開業当初の「簾舞駅」です。

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