美唄軽便鉄道

明治43年4月に公布された軽便鉄道法は、地方交通の安上がりな速成をめざした鉄路でした。軌間寸法や勾配の制限も穏やかで出願手続きも容易でした。
ところが、会社や事業が主体となるため敷設をめぐって係争が絶えませんでした。

美唄川流域の炭鉱開発は、明治20年代から始まっていました。しかし、鉄道輸送は北海道炭鉱鉄道の独占下にあって、他の石炭業者はほとんど顧みられることはありませんでした。

明治38年、美唄川流域に鉱区をもつ石炭業者が集まり石炭鉄道建設を計画しました。この計画を引き継いだのが石狩石炭㈱でした。
美唄炭山(沼貝)から北海道炭鉱鉄道の美唄停車場を経由して石狩川岸の月形7に至り、さらに石狩湾に達する198キロの特許請願でした。
しかし、これは無理があるのと北海道炭鉱鉄道の独占がなくなることもあり、鉄道敷設は美唄炭山ー美唄間となりました。

工事は明治39年10月から始まりましたが、鉱区権所有者飯田延太郎との間で鉱区をめぐって係争が起こり、工事は明治42年に中断。係争は石狩石炭の敗訴となり、鉱区を失ってしまいました。

美唄川流域の石炭埋蔵の鉱区は、浅井総一郎(日本セメント社長)が10数鉱区、飯田延太郎が10鉱区、三井物産8鉱区、園田実徳(北海道炭鉱汽船副社長)8鉱区、村井吉兵衛3鉱区、徳田与三郎2鉱区と、ほとんどの鉱区はそうそうたる実業家が所有していました。

明治45年4月、鉱区を失った石狩石炭が美唄軽便鉄道の敷設免許を出願しました。これを知った飯田延太郎は、自らも出願。更に、鉱区の所有地に農場を持っていた桜井良三も、政友会の東武をはじめ地元有志の賛同を得て出願。こうして、三者による競願となりました。

結果は、石狩石炭㈱が40万円を投じながら中断していることが考慮され特許が下ろされました。
直ちに、工事を再開し大正3年11月5日に沼貝(美唄炭鉱)ー美唄間8.3キロが開通。
上下6往復の運行で、所要時間は35分でした。

美唄軽便鉄道を引き継いだ三菱合資会社は、美唄鉄道㈱を設立して自主営業を開始。大正13年12月には美唄炭山から常盤台に線路を延長しています。