更科源蔵詩碑ー弟子屈町

弟子屈は「てしかが」と読みます。弟子屈町公民館の町民憩いの広場に、北海道の代表的詩人であり郷土史家の碑が建っています。

更科源蔵は弟子屈町にて、新潟県からの開拓農民の9人兄弟の末子として生まれます。役場までの道が雪で閉ざされていたため出生届の提出が遅れ、2月15日生まれとされました。
東京の麻布獣医畜産学校を喀血し中退し帰郷。コタンの小学校の代用教員や酪農・印刷業などする傍ら、東京で勉学中、詩人尾崎喜八に認められた詩作を続け、アイヌの古老からアイヌ文化を教わります。
詩誌『リリー』『潮霧』などを刊行、高村光太郎、尾崎喜八らに私淑し、詩作を始め、1925年に「抒情詩」の尾崎喜八選に入選したのをきっかけに、1927年、『港街』創刊。
1930年開拓農民とアイヌの現実を描いた詩集『種薯』を刊行。
1929年から31年にかけて地元で代用教員となりますが解雇され、札幌市に移り様々な職を転々としながら詩作とアイヌ文化研究を進めました。
1985年(昭和60年)81歳脳梗塞のため札幌厚生病院にて死去。

   詩碑

   もうお前は忘れたかもしれないが あのとき頬かむりをして
   開墾地の隅で泣きじゃくっていたのが 私だよ 雲よ 
   あのとき茜色だったお前が 
見るみる光を失って灰色に沈み 
   夕べの空にとけてしまったのを 
 いつまでも見ていたのが 
   私だよ 雲よ

                      昭和52年10月1日建立
                      弟子屈町 公民館  直筆