八木義徳ー室蘭市

港の文学館

室蘭の市民ほど一人の小説家を顕彰している土地は他にないでしょう。その小説家とは八木義徳(やぎよしのり)です。
これは「港の文学館」を訪れた時に感じました。「八木義徳記念室」がありました。このようなコーナーは良く見るのですが、その展示の仕方に手作りの温かさを感じたのです。幸せな文学者であると思いました。

(私が訪れた時の文学館は、その後場所が移り新しくなったようです。)

八木義徳は明治44年に室蘭町大町(現在の中央町)で、父は町立室蘭病院長の田中好治、母は八木セイ。庶子として生まれ、沖仲仕の乳飲児として預けられます。1944年(昭和19年)、応召を受けて出征し、湖南省長沙から行軍中だったときに、「劉広福(リュウカンフー)」で第19回芥川賞の報せを受けます。これは北海道で初の受賞でした。

私小説家の八木は繰り返し故郷を書いています。

「17年ぶりの帰郷だった。私は室蘭駅の改札口を出ると、町の高台にある八幡神社をめざした。昭和7年、21歳、私はこの町を棄てた。私は棄郷者であったが、ふるさとの氏神の前に立つと記憶が甦ってきた」

八木文学の代表作「海明け」(昭和30年作)

「ふるさとといえば、私はまず真っ先にあの地球岬の灯台の霧笛を思い出す。子供のころは、あの音をきくと、地の底へめりこむような憂鬱を感じたものだが、しかし故郷を遠くはなれすむいまの私には、なによりもなつかしい望郷の歌ともきこえる。厚い海霧の幕を裂いて終日ぼうぼうと鳴りわたるあのコントラバスの弦の音は、わが魂の子守唄。北方のトスカ(憂愁)を、私はチャイコフスキーの音楽よりもさきに知った。そしてあの音楽のタンバリンの役目は、あの馬橇の鈴の音だ」

1969年(昭和44年)から終生、東京都町田市の町田山崎団地で暮らし、1998年11月9日、起立性低血圧の発作で入院していた町田市の多摩丘陵病院で死去。

↓室蘭の濃霧を描いた絵もあります。

霧の室蘭