国木田独歩「空知川の岸辺」ー赤平市

国木田 独歩が明治21年に来訪し「空知川の岸辺」を著した場所で、空知川の景勝ポイントとなっています。昭和31年に作られた建立の碑があります。 

24歳の新聞記者独歩が佐々城信子と恋に落ち、彼女との愛の巣を求めて「北海道移住の事につき、宜しきに導き給へ」と単身で来道したのは明治28年の秋でした。

函館・室蘭・岩見沢を経て札幌入りした独歩は札幌農学校教授の新渡戸稲造らを訪ね、北海道庁にも出頭して土地選定の相談をします。そうして空知川に向かったのが9月25日でした。

「余が札幌に滞在したのは5日間である、僅に5日間ではあるが余は此間に北海道を愛するの情を幾倍したのである。
 我国本土の中でも中国の如き、人口稠密の地に成長して山をも野をも人間の力で平げ尽したる光景を見慣れたる余にありては、東北の原野すら既に我自然に帰依したるの情を動かしたるに、北海道を見るに及びて、如何で心躍らざらん、札幌は北海道の東京でありながら、満目の光景は殆ど余を魔し去つたのである。」

「札幌を出発して単身空知川の沿岸に向つたのは、9月25日の朝で、東京ならば猶ほ残暑の候でありながら、余が此時の衣装は冬着の洋服なりしを思はゞ、此地の秋既に老いて木枯しの冬の間近に迫つて居ることが知れるであらう。
 目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談することである。然るに余は全く地理に暗いのである。つ道庁の官吏は果して沿岸れの辺に屯して居るか、札幌の知人何人も知らないのである、心細くも余は空知太を指して汽車にじた。
 石狩の野は雲低く迷ひて車窓より眺むれば野にも山にも恐ろしき自然の力あふれ、此処に愛なくなく、見るとして荒涼、寂寞、冷厳にして且つ壮大なる光景はも人間の無力とさとを冷笑ふが如くに見えた。」

 

「空知川の岸辺」は、近代作家として初めて北海道の原始のさまを的確に捉えた小説というよりも紀行記に近いものでした。

砂川の駅を降り、滝川の三浦旅館から歌志内・石川旅館で宿泊し徒歩にて赤平に向かう。歌志内から坂降りて突き当たりにある丘赤平の日の出町でした。

『内地では見ることのできない異様な掘っ立て小屋がある。板を用いしは床のみ、床には筵を敷き、出入り口にはこれまた樹皮を組み立て戸となしたるが一枚おおわれているばかり。「これ開墾者の巣なり、いな城郭なり」。』

『冬になったらたまらんでしょうね、こんな小屋にいては』と余。
『だって開墾者は皆こんな小屋に住んでいるのですよ、どうですしんぼうできますか』

『覚悟はしていますが』
と答えたものの、二の足を踏む独歩の心境が伝わってきます。

「国木田独歩曽遊地」碑が建っているのは、国道114号が国道38号に突き当たったところで、空知川を見下ろす一面に「独歩苑」があります。
昭和31年の9月26日ゆかりの日に除幕式が行われました。