日露戦争
 
日露戦争で、屯田兵は第七師団に後備兵として配属され、旅順と奉天で激戦を潜り抜けました。
戦争中に屯田兵は廃止されましたが、そのまま従軍し、戦争終了によって免役となります。
 
明治37年(1904年)2月に日露戦争がはじまったとき、屯田兵はすべて現役を退き、後備兵になる間際でした。
旭川に本部をおく第七師団は、ロシアの出方をうかがう意味もあって、当座は動員をかけませんでした。

8月4日に動員が命令され、充員のため屯田兵も召集されます。
8月17日に野戦第七師団が完了し、大迫尚敏中将が師団長となりました。
第七師団は、他の師団と異なり、各連隊に約1個小隊の乗馬歩兵を配属し、伝令などに当たらせる編成をとります。
この乗馬歩兵は屯田兵から選ばれました。

北海道には10月26日に留守第七師団がおかれ、訓練と補充にあたります。

10月21日から輸送が開始され、11月に大連に集結、乃木希典の指揮する第三軍に属しました。

そのまま旅順攻囲戦に参加し、攻略の一翼を担って莫大な損害を出します。
旅順陥落後は、奉天会戦に参加。
講和交渉開始の翌年、明治39年(1906年)3月に日本に帰着します。

 

第七師団全体の損害は、死者3142人、負傷8222人に及びました。
(屯田兵だけの損害ではありません)