明治14年(1881年)、依田勉三28歳の時に下調べで北海道に渡りました。
横浜から汽船で函館に着いたのが7月末日。
函館から長万部を経て室蘭に陸行し、そこから函館に船で戻ります。
(雇ったアイヌが強引な旅に逃げ出してしまったためでした)

今度は函館から根室に向かいした。到着したのが9月20日。

横浜の船の中から一貫していたことがありました。
入植者があると聞けば、直ちに足を向けて徹底した聞き込みをおこなっていたことです。
その中で開進会社の躍進ぶりは勉三の競争心をそそります。
特に根室にある開進会社の出張所で、十勝平野へ進出する計画があると洩れ聞きました。

根室から海岸つたいに浜中・厚岸・釧路・十勝と歩き続けて厚内(十勝郡浦幌)へ、更に一里ほどで十勝川の河口大津の港。
ここから舟をやとい十勝川を上り、次の日の夕刻オベリベリ(帯広)に着きました。この視察では、苫小牧・札幌を経て南伊豆に戻りました。
 
<開進会社>とは、1880年に和歌山県士族の岩橋徹輔が設立した会社。
「遊手坐食」の士族を授産させるために第四十四銀行頭取であった岩橋徹輔
が岩倉具視ら華族から200万円の資本金の出資をもくろんで設立した会社で
す。全道各地に土地の払い下げを受けたが、思うように資本金が集まらず1884年に解散しました。

写真は、現在の浦幌町昆布刈石です