弁慶岬(べんけいみさき)

本目岬を過ぎて北上すると豊岡、歌島地区を過ぎて寿都町に入ります。陸地が日本海に三角形のように突き出たところに弁慶岬があります。この岬に立つと寿都町だと分かります。
アイヌの人たちはポロ・エド(=大きな鼻形の岬)と呼んでいたといいます。それを和人が「ベンケイ」と発音したのが名前の由来と伝えられています。
しかし、話はどんどん大きくなり、なぜ弁慶の像が立っているのかといえば次のような伝説があります。

武蔵坊弁慶は奥州より逃れ傷つきながらも北の大地に渡り、この地に滞在していました。そんな時、弁慶の舎弟と言うべき存在である常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)が、義経再挙の兵を募り蝦夷地へ向かったとの情報を耳にします。来る日も来る日も海尊の乗る船の到着を待ちますが、その姿を見ることは叶うことはありませんでした。日々船を待ち続けるそんな弁慶の姿を見たアイヌの人々がここを「弁慶岬」と呼ぶようになった」と伝えられています。
銅像の台座には「想望」と書かれており、今も変わらず打ち寄せる波は弁慶の思いを運んでいるのかもしれません。

この弁慶岬から寿都湾を通り次の尻別岬まで約30キロで蘭越町に入ります。この短い海岸沿いに寿都町のドラマがずっしりと埋まっています。

寿都町は昨年原発廃棄の受け入れを巡って住民が二分した町です。しかし、結果受けれが決定し国から助成金を受けて町の再建が始まっています。
小さな町ですが、私はこの町が好きです。日本海と太平洋との距離が一番近い町で、蝦夷の時代には太平洋岸のアイヌの人たちが日本海に出向くときに利用したのが朱太川です。太平洋の風が川を伝って吹く強い風を利用して、今の町長は風力発電をいち早く導入した町です。