水天宮(小樽)
私が小樽に行くと毎回訪れるのが「水天宮」神社です。
この神社は小樽港が一望できる高台にあります。昔は崖下まで海だったところで、現在は観光客に人気のオルゴール堂がある堺町通りになります。高台の回りは、かつての小樽を彷彿させる豪商の旧邸宅が保存されています。

神社の境内に石川啄木の歌碑があり、この歌が小樽人の気質を良く表しており気に入っています。

【かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人人の 聲の荒さよ】

20年ほど前になりますが、タクシーに乗って水天宮に向かう三国連太郎を見かけました。

小樽人魂はどこへ

今年の暑い夏を避けて久しぶりに行ってきました。観光客は東日本大震災とは比較になりませんが激減しており、韓国との政治悪化は小樽にまで来ていました。

元々小樽が観光都市になったのは小樽運河ではなく韓国のお陰です。そもそも、北海道に東南アジアの人たちが訪れるキッカケを作ってくれたのは韓国の人たちでした。

「お元気ですか~」のシーンで有名な、岩井俊二監督の映画『Love Letter』(1995年)がありました。

天国の恋人に向けて送ったラブレターからはじまる、小樽と神戸を舞台にしたラブストーリーです。韓国では日本の公開から4年後の1999年に公開され、大ヒットを記録。「お元気ですか~」のフレーズは、「日本語は分からないけど、この言葉だけは知っている!」という人もいるほど、韓国人に強い印象を与えました。

更に、映像の中で韓国の人たちに強く残したのは「雪」でした。中山美穂演じる主人公の雪景色を求めて、韓国の若者が小樽の天狗山や赤井川国道を走り回ったのは20年前のことです。そうして「冬のソナタ」(2002年)が生まれました。当時、オルゴール堂の前や小樽駅前の坂で韓国の小さな撮影部隊を見かけました。韓国では映画に登場する北海道にあこがれ、北海道旅行を決意する人が多いようです。それが今年の夏はおりませんでした。

小樽運河論争と景観条例

小樽といえば「運河と歴史的建造物」ですが何故こうなったかというと、石川啄木が強い心象を持った「聲の荒さよ」の歴史があります。
小樽運河を埋め立てるという計画が突然持ち上がりました。この当時のことを小樽の人から聞く機会がありましたが、小樽市民が二分されるような争議だったといいます。

小樽運河は、大正12年に完成した湾岸施設です。海岸を埋め立てて造られ、船荷の積み下ろしを行う際、船と倉庫を円滑にするためのものでした。ところが海運業の衰退とともに、運河に汚泥が溜まり異臭が漂い問題となっていたのです。

発端は「札樽国道」(札幌~小樽間の高速道路)の開設でした。現在この高速で小樽に入ると、運河手前で道道17号(小樽臨海線)に出ることになります。昭和41年に計画された時は運河を埋め立てて街中で出口になるものでした。計画が本格的になった昭和48年に「小樽運河を守る会」が発足。話が出てから16年間の長きにわたる賛否両論の中から、運河の半分を埋め立て臨海線と散策路をつくるということで決着。

運河沿いの散策路には約60万個の御影石のブロツクが敷き詰められ、ガス燈31基が設置され、昭和61年に臨海線が開通したのです。

小林多喜二「転形期の人々」の一節(昭和6年発表)
運河の岸壁には色々な記号をもった倉庫や保税倉庫が重い扉を開いて居り、そこから直に船の上に荷物の積み下ろしをしている。たくさんの帆網を持った漁船、発動機船、帆船、サンパンがずらりと並んで、お互いの船ばたを擦り合い、ぶつかり合いながら、岸壁につながれている。小蒸汽やモーターが通ってゆくと、スクリューのあふりを食らって、それらの船が激しく身体を揺すった。

運河埋め立てが引き金となり、昭和58年「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を制定。

小樽市が街の歴史を残すための条例を作ったのです。平成4年までに31棟の歴史的建造物が指定されました(今は30棟)。昭和62年には、二ヵ所の歴史的景観地区(小樽運河周辺地区、色内大通・緑山手通り地区)が指定され、更に、堺町本通りを「歴史的景観地区」、入船七叉路地区を「拠点的景観形成地区」に指定しました。これらは全国で初めてのことでした。

しかし、これで観光客が来てくれるものではありません。

このような騒動の中でオープンしたのが運河通りの倉庫を改良した硝子屋です。北一硝子は1901年創業の老舗で、石油ランプやニシン漁用浮玉(ブイ)の製造が生業でしたが、プラスチックなどによる代替品や漁業の衰退が進み1980年代には業績が落ち込んでいました。小樽市歴史的建造物第21号の旧木村倉庫を譲り受け、昭和58年(1983年)2月、北一硝子三号館として開店したのです。

この倉庫は鰊漁場の中継倉庫で、小樽港の繁栄を示す大規模な石造倉庫でした。内部は中央廊下を挟んで二つの倉庫に分けられ、その廊下には港から引込まれていたトロッコのレールが今も残されています。小樽市民にとっては拍手喝采でした。

1995年『Love Letter』が封切りになり、1999年(平成11年)韓国で公開されるころ、大型商業施設「マイカル小樽」(現在のウイングベイ小樽)が開業しました。県外から大資本が入ってきたのです。更に、石原裕次郎館もマイカルの向かい側にオープン、石原軍団も駆けつけて華々しいオープニングでした。小樽市はもろ手を挙げて大歓迎。しかし、二年目の2001年にマイカルは経営破綻し、連鎖して小樽ベイシティ開発も「民事再生法」を申請。小樽市は土地をめぐって泥沼の戦いに入っていきます。

このような時代に「お元気ですか~」ブームが始まったのです。

現在の小樽は「どこにでもあるような観光都市」となりました。それは観光客が訪れるのは小樽運河界隈だけで、このエリアには小樽人経営者は激減、県外資本ばかりで統制がとれなくなりました。町の歴史を知らない飲食・小売店が立ち並び、小樽らしい店は閉店、または影が薄くなっていきました。

「お元気ですか~」で訪れる韓国の人たちは、映画の世界に憧れて来ただけなので小樽の歴史に関心があるわけではありません。お店は韓国人に合わせた品ぞろえや味付けですから、日本人に合うのは精々若者ぐらいです。更に、露地に入れば甲高い女性の声で連れの男に迫る韓国女性も見かけます。

観光客が激減している今こそ小樽人は再生を賭けて「観光都市」を目指していただきたいと思います。