二股ラジューム温泉 (長万部おしゃまんべ町)

長万部町から山奥へ18kmほど入ったところに、知る人ぞ知る有名な秘湯の温泉宿があります。効能は古くから知れ渡っており、戦前は帝国陸軍の保養施設としても使われていました。かなり前ですが、東京で電車のつり革広告を何度も見たことがありました。
ラジウム-ナトリウム・カルシウム-塩化物泉。源泉温度46℃、源泉に含まれる石灰分によって形成される石灰華が特徴です。旅館の傍には巨大な石灰華ドームが形成され、天然記念物に指定されアメリカのイエローストーン国立公園と当所だけ存在すると言われています。

20年ほど前に、日帰り温泉で訪れたことがあります。入浴しているのは重い病のある人たちばかりでした。その後、朝日新聞社岩見沢支局の記者が、ガン宣告を受け担当医とのやり取りが連載されていました。
私もガンの宣告を受け、同じ病院でこの担当医に出会い大変救われました。記者は、退院後も担当医の転勤を追いかけていました。この温泉に湯治に訪れた記事もあり連載は70回ほどで終えました。その後の消息はわかりません。
このラジューム温泉は効きそうで、宿泊は人数に制限があるため長万部駅前の旅館を利用する人もいるといいます。

長万部岳(おしゃまんべだけ)
「おしゃまんべ」という地名の由来は長万部岳から付けられています。標高972.4mの長万部町最高峰の山は今金町との境にあります。市街地から国道5号で北上し「二股」に向かい、道道842号から西に入り「二股らじうむ温泉」の近くに登山口があるといいます。
漁師の間では、雪解け頃、谷間の残雪がカレイの形に残る時が漁期の始まりだと言い伝えられていました。
松浦武四郎は「東蝦夷日誌」(1863年)で、「昔し神有て、此処の海に釣し大比目魚を得給ひ、此魚は神也、我是を山に祭らん、己後春毎に諸山雪消て後、此山に此形したる残雪有るべしと」 アイヌ語でオ・サマンベ。川尻(河口)のカレイの意味です。
松前藩は幕府への報告のため、アイヌ語地名への漢字の当てはめを「音」でひろって後から現地を知らぬ役人が机上で漢字を当てはめたものが多いのです。

長万部平野
室蘭から国道37号で静狩峠を過ぎると長万部町に入ります。ここからが道南です。
目の前に長万部平野が広がり、峠を下りてJR室蘭本線と並行して左に噴火湾を見ながら一直線。函館からの国道5号との交差点が37号の終点になります。
長万部町は内浦湾最深部に位置し、北は長万部川をさかのぼって、島牧村・黒松内町に接し、西は今金町に、南は八雲町に接しています。
地形はおおむね丘陵が起伏し、大部分が山地で、平地は内浦湾に沿って帯状に分布し長万部川・紋別川・国縫川沿いに平坦で肥よくな農耕地ですが、海岸はほとんど砂浜です。

かにめし弁当

JR函館本線・室蘭本線が分岐し町内に7つの駅があり、長万部駅は機関区になっているため線路が敷き詰められ駅舎は南口しかありません。国道は5号・37号・230号の3本の幹線道路が集中し、交通の要衝として昭和時代から栄え、駅を過ぎて国縫間はドライブイン街道と言われていました。
その中間に「かにめし弁当」の本舗かなやが営業しています。戦後の食糧難の頃、米はなくても長万部には毛ガニがあったのです。高速道長万部IC、国縫ICが開通し、今は、この街道も閉店する店が並んでいます。
北海道新幹線の長万部駅が作られるので流れが変わることを期待しているでしょう。

長万部のはじまり シャクシャイン古戦
長万部の歴史は古く、1669年、国縫川を挟んで松前藩とシャクシャインが率いるアイヌ民族の戦場となった場所です。
10年ほど前、長万部町役場で戦場となった場所を聞きに行きましたが、どの部署も分からず教育委員会に回されまましたがダメでした。ところが、白老町でアイヌ博物館問題が浮上すると一変し、この戦場跡が設置されました。更に、慰霊碑建設を記念して静内のシャチ跡までを行進するイベントも行われました。
この「シャクシャイン古戦場跡」を訪れてみると国道230号の国縫からせたな町に向かう入口にありました。小学校廃校跡地のグラウンドの一角に慰霊碑を建てていました。しかし、実際の戦場は国縫川をさかのぼり松前藩の砂金発掘現場でしたから、古戦場とはほど遠い場所でした。
戦いがあった頃の長万部はアイヌ人の集落で、オットセイ漁を行っており松前藩はユウラップ場所で小規模な交易だったようです。
1855年南部藩は警備のため、この地に分屯所を設けており今も陣屋跡が残されています。翌年、開墾の目的で二人の移住者が定着し旅宿や馬追いを経営していました。これが最初の和人の定住とみられています。

1857年に竹内弥兵衛という人が亀田(現在の函館)から移住し、旅宿や馬追いを営み、後に初代の副戸長となりました。同年、箱館奉行所の募集に応じて、関東・越後の農民が100名ほど移住し、栗木岱他3か所に御手作場を開きました。明治24年、それまで拾い漁のみが行われていたホッキ漁でしたが、佐藤佐太郎がホッキ貝捕獲機を使い始めました。明治29年には倉光和吉が水田を開き、熱心に稲作に取り組んでいました。戦後は酪農を奨励。昭和33年には乳牛飼育頭数が千頭に達し、町営牧場も備え、漁業は平成5年にしゃれたワイングラス型の国縫漁港が完成しカレイ・ホッキ貝、ホタテの養殖も盛んです。

直木賞作家・和田芳恵

国縫は直木賞作家・和田芳恵(昭和38年受賞・小説『塵の中』)が生まれた土地です。生まれた場所は国縫駅前で、樋口一葉の研究で知られ、読売文学賞、日本文学大賞、川端康成文学賞なども受賞しています。
荒物雑貨商を営んでいましたが一家が没落する中で、厚田の佐藤正男の奨学資金制度で私立北海中学に学び、ついで上京します。故郷を書いた小説やエッセイが多くあります。松本清張の資質をいち早く見抜き、地方新聞記者だった松本清張が作家の道を歩む第一歩は和田芳惠との出会いでした。
「国縫川を挟んで、シベチャリ(静内)の酋長シャクシャインと松前藩の軍勢が戦い、シャクシャインの軍勢が松前藩の鉄砲二百挺に撃ちたてられて敗退したのは寛文九年夏のことであった」 ―生まれ故郷からの作品から。

長万部町立町民センター

長万部の町役場は、JR長万部駅の南口にありますが「町立町民センター」は駅の北側になります。機関区があるため、町が二分されており大変分かりにくくなっています。
国道37号と国道5号の交差点から右折してJRの踏切を渡り、すぐに左折すると長万部駅の北側になります。このあたりは、まず通らないので気がつかないのですが「平和祈念館と植木蒼悦記念館」もあります。 長万部町教育委員会が管理して」いますが、とても田舎の記念館とは思えないほど素晴らしい作品群と展示品が並んでおります。
町民センターの郷土資料室には「和田芳恵コーナー」があり、原稿や著書・遺品などが展示されています。この建物の両隣りに平和祈念館と植木艙蒼悦記念館があります。更に、近くには幕末の徳川幕府直轄時代に造られた南部陣屋跡もあります。

平和記念館
長万部町で43年間開業していた医師の故工藤豊吉氏が、私財を投じて建設した美術館で、昭和58年(1983年)の終戦記念日に、展示品の数々が長万部町に寄贈され、人類の平和を祈念して開館しました。 反戦と平和を願う心が生んだ、さまざまな美術工芸品が展示されています。
展示作品は、総数588点。前庭は彫刻の庭となっており、北海道出身の世界的彫刻家・本郷新氏の作品「嵐の中の母子像」「わだつみのこえ」ほか3点が展示されております。

 植木蒼悦(うえき そうえつ)
1896(明治29)~1982(昭和57)享年86歳 

植木蒼悦記念館(長万部町教育委員会)
蒼悦は、函館で生まれ17歳の時に大下藤次郎画伯の門下生として日本水彩画研究所に入所。
その後函館に戻り、独自・独学で水墨画を始めました。 河童を題材とした水墨画は特異な境地を開いたものです。
長万部の記念館では常設されておりいつでも無料でみることができます。