アヨロ温泉 (白老町) 
「登別のみなさんは、日帰温泉をどこに行くのですか」と尋ねたことがあります。
地図を書いて2か所教えてくれました。一件は登別温泉街の真ん中にある「夢元さぎり湯」大人390円。さすが温泉の町で格安です。しかし、急な坂道で駐車場が狭く、諦めて二件目に向かいました。こちらは登別温泉街を下って国道36号を左折すると、もう白老町にはいります。(料金は今のです)
登別温泉は山の上の山の中ですが、こちらは太平洋を眺められる源泉かけ流し温泉大人420円、民営ですがこちらも安い。

この辺りは虎杖浜(こじょうはま)でアイヌ語地名が多いところです。
アヨロとは変わった名前なので調べてみると、近くにある小さな河川の名で、ay-woro 「矢・納める」の意味でした。登別と境界近くの白老海岸は「アヨロ遺跡」が発見された場所でした。
登別もアイヌの人たちが多く知里幸恵の生まれたところで「銀のしずく記念館」があります。
ひと風呂浴びで出てくると、太平洋の繰り返し押し寄せる波が感動的でクールベに習って一枚描いています。

観光客が行かない登別市の旅 
登別市といえば「登別温泉」と言われるくらい温泉で知られる町です。全国の温泉に浸かりまくった温泉教授松田忠徳氏によると、北海道の「温泉横綱」は登別だといいます。その理由は湯量の多さと泉質にあり、9種の泉質は「温泉のデパート」にふさわしい。本人の生まれが登別であることを抜きにしても、北海道を代表する温泉地であることには間違いありません。

現在の第一滝本の創業者(武蔵出身の滝本金蔵)が安政4年(1857年)に、クスリサンペツ川沿いに薬湯が湧くという噂を聞き、妻の病気療養のために小屋を建てたのが登別温泉の始まりとされています。
しかし、その前年(1856年)に島義勇(札幌を設計した開拓判官)は蝦夷巡回中に皮膚病にかかり、温泉に浸かり治して箱館に戻ります。また同じ年に、白老に陣屋を築いた仙台藩の家臣たちも、この薬湯のお世話になりました。
1665年には、美濃国(岐阜県)出身の円空上人は霊泉霊地としての温泉を知り「観音仏」を作り、「のぼりべつゆのごんげん」と背に彫って奉納しているほどの歴史があります。

登別名の由来は登別川で、アイヌ語nupur-pet(水の色の濃い・川)の意で、昔の登別川は随分濁っていたそうです。
地図でいえば登別市の東の端で白老と接している位置になります。市のエリアは太平洋に面し、JR室蘭本線と国道36号、更に道央高速道路が平行に横断し、平地が少なく片側は急な山になっています。鉄道は「登別駅」「冨浦駅」「幌別駅」「鷲別駅」と4か所あり、どういう訳か鷲別駅は東室蘭とまたがって設置されています。
温泉に行くには、登別駅からバスがあり20分ほど急な山道を上っていきます。
交通の無かった時代に創業者や代を継いだ人たちの苦労は並大抵のものではありませんでした。テーマパークの「伊達時代村」までは7分です。
昭和45年に登別町からが市制施行し登別市となりましたが、登別町となったのは昭和36年のことで、それまでは幌別町でした。登別温泉が知れ渡るにしたがい町名も改名したのでしょう。登別駅があるので、この駅で下車すれば登別役場があると思えば大間違いでした。登別市の市庁所在地はJR登別駅から二つ先の幌別駅になります。

登別郷土資料館 白石城

登別郷土資料館・白石城

明治に入り、新政府は戊辰戦争で敗れた仙台藩の白石城主片倉邦憲に幌別郡支配を命じました。明治2年に子の景範と孫の景光を中心として藩士150名を移住させたのが登別開拓の始まりでした。やがて廃藩置県を迎え、幌別郡支配を免じられると、自力移住派と開拓使貫属派に分裂。開拓使保護の一派は札幌再移住。(ここから現在の白石区と手稲区が生まれました)
また、鷲別(東室蘭と隣接地)にも移住しこの地の開拓の祖となっています。左の郷土資料館は片倉家の居城だった白石城の外観をデザインしています。この資料館には、登別温泉創業者(滝本金蔵)の当時の写真や、札幌駅前にあった五番館創業者など貴重な写真などもあり、訪れた時に館長は片倉藩の資料をまとめて渡してくれました。
登別温泉に上っていく時に、テーマパーク「登別伊達時代村」があります。この村内に伊達政宗の重臣として活躍した片倉家の「片倉史料館」や本格的な日本庭園「政宗月見苑」など、伊達政宗につながる歴史を展示してあります。
JR幌別駅で下車する人は地元の人ぐらいですが、登別の市街地は幌別に整然とした街並みが続いています。

カルルス温泉
登別温泉から北西へ約8キロ、車で15分のところにカルルス温泉があります。明治19年に発見され、その3年後に日野久橘(ひのきゅうきつ)が再び温泉を発見。温泉の湯を試飲したところ、持病の慢性胃カタルが治った事から開発に心血を注ぐことになります。明治32年、道路や旅館を整備し温泉地として開湯されました。
カルルスの名称ですが、これはチェコの都市カルルスバード温泉に似た泉質であったことによるといいます。日露戦争の後期に、旭川陸軍呼び病院の指定の療養地となり知名度が高まり整備されていきました。北海道で最初の国民保養温泉に指定されます。登別温泉と比べると小さな温泉地ですが、歴史のある旅館が四軒並んでおり何度か訪れております。

オロフレ峠

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オロフレ峠(壮瞥町と登別市の境)

カルルス温泉から峠に向かう道道2号(洞爺湖登別線)があります。現在は観光ルートとしてツアーバスも通る道ですが、私が最初に通った昭和60年は険しい峡谷を上る狭い道で、恐る恐る走りようやくオロフレ峠に到着しました。上ってきた道を見下ろすと絶景を絵に描いた景色でした。その後事故でもあったのでしょう、オロフレ山(1230.7m)の南方にトンネル(昭和63年開通、全長935m)が開通し、直接峠の展望台に行けなくなり壮瞥側からの旧道となりました。
訪れるたびに景色が変わっていました。この展望台から油絵で二点描いています。一枚は倶多楽湖(くったらこ)方面の太平洋側、もう一枚は反対側の洞爺湖を見下ろした風景です。昨年訪れた時には、樹木が高くなったためなのでしょう、どちらも湖は見ることはできませんでした。
(絵は洞爺湖の油絵 P30 ベニヤ 横910×縦650 2014制作)

登別地区は観光地で草津温泉と姉妹提携をしています。鷲別地区は室蘭市と隣接しているのでベッドタウン化しております。幌別地区は市庁所在地で隣の冨浦駅の間には工業団地を持っています。更に、陸上自衛隊幌別駐屯地がありますし、登別郷土資料館を登っていくと幌別ダム山があります。そうして、日本工学院北海道専門学校がある札内地区はサフォーク羊をはじめ、乳牛なども飼育され酪農が盛んです。

札内高原館

札内高原館

幌別市街から登別温泉―カルルスに向かう市道を走っていくと「札内高原館」というのがあります。見るからに学校の校舎跡であるとわかります。廃校になった小中学校を工場にして、乳製品をつくっていました。私が偶然通り、訪れたときは市営の指定管理者が運営していました。
今年の3月31日に指定管理者である「株式会社のぼりべつ酪農館」は市から買取りが決定していました。
大きなメーカーとは違い、手作りに等しい生産体制です。この登別は北海道の中でも、トップレベルの乳質を誇る生乳の生産地でした。この施設では、地元の生乳を使ってパスチャライズド生乳やアイスクリーム・チーズを作っています。地元のホエー豚を使ったソーセージも自慢。
地元の良質な生産物をキチンと加工して、家庭で安心して楽しんでいただくこと、食材の成分や風味を大切にして、酪農家さんの努力に報いることをモットーとしています。