箱館戦争官軍上陸の地碑 (乙部町)
乙部町の漁港内に官軍初上陸した碑が建てられています。
明治元年10月20日、旧幕府軍の榎本武揚が軍艦8隻(開陽丸他)で鷲ノ木の浜(現森町)に上陸し、箱館へ進軍12月に五稜郭に蝦夷共和国を成立しました。
これに対し官軍は、翌年(明治2年)青森で兵力をたて直し、4月9日、1,500人の兵と「甲鉄」「春日」など軍艦8隻で乙部沖に到着、現在の乙部漁港付近に続々と兵士が上陸しました。
この新政府軍総大将が後の開拓使長官黒田清隆でした。
その後、軍艦から旧幕府軍の陸兵への艦砲射撃などにより江差を奪還。更に松前道・鶉山道(渡島中山峠)などから箱館へ進軍し、5月18日、榎本武揚をはじめ旧幕府軍1,300人を五稜郭から投降させ箱館戦争が終結しました。箱館戦争は渡島半島南部で広範囲に行われており、最後に箱館で壮絶な戦いで死者が続出します。旧幕府軍の遺体は「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままでした、たまりかねて一人の任侠・柳川熊吉が収容し後の函館山中腹にある碧血碑(へきけつひ)となりました。

乙部岳(おとべだけ)
乙部岳は乙部町と厚沢部町の境界線上に聳える千mを越える山です。
乙部町側は姫川が深い谷を形成し、厚沢部町側は急な崖になっています。
オトベとはアイヌ語のオ(川尻)・ト(沼)・ペ(川)で、川口に沼のある川という意味です。しかし、乙部川という名前の川はなく、姫川がその川だといいます。というのは、乙部岳は伝説とロマンを秘めた山で源義経が残す逃避行の足跡の話が詰まっています。

乙部岳のすぐ南にある九郎岳および、途中にある九郎嶽神社の「九郎」とは源義経のことで安政6年(1859年)の建立です。
開山・松崎弥兵衛(現乙部八幡神社宮司・松崎家の先祖)は渡道し、山岳信仰の修験者(山伏)として九郎岳に入山。岩屋に祠を建て、厳しい修行に励んだと伝えられており、この地に奥州平泉から逃れた義経が、北海道、そして中国大陸に渡る際に立ち寄ったとされる伝説が残っています。姫川の由来は、義経に逢えないことを悲しんで静御前が身を投げた川との伝説に基づき、姫待峠の由来も義経が静御前に逢えないで越した峠ということです。

乙部町のはじまり
道南12館(中世)が築かれていたころはアイヌ集落だけでした。コシャマインの乱(1457年)で武田信広に制圧され、参戦した乙部のアイヌも敗惨しました。
1596年、新天地を拓くため、蝦夷を目指した上杉家臣、宇田民部らが乙部に辿り着き、海岸沿いで漁業を始めたのが、この町の始まりとされています。
江戸期には鰊の千石場所として江差に次ぐ町として発展します。そのようなことから義経伝説が色濃く伝えられてきました。

明治12年、和歌山県人岩橋徹輔によって設立された開進社の本社を函館に、第2会所を乙部に置き、欧米式農業を行いますが資金難と内紛で解散。
明治30年、漁獲高全道3位となり鰊漁で栄えますが、明治末から不漁となり鰊からの転換を図ることになります。
明治40年、現富岡に青森の貴族院が経営する農場に青森から7戸が移住。
その後、馬140頭、牛30頭を飼育し、豊富な森林資源をもとに炭焼きも行いました。
戦後、豊浜・元和漁港が完成、1970年代には延縄漁業で勢いを増しましたが、200海里以降はスケソウダラが中心になっています。

館の岬(たてのさき)
江差から北上して乙部町に入り、市街地を過ぎて「姫川」を渡るとトンネル手前に駐車場があり、この国道227号で最大の山場です。“追分ソーランライン”は奇岩・奇景の宝庫ですが、高さ50mを超える垂直の断崖です。
昔、昔、この一帯は海の底でした。いくつもの地層が堆積した後、地殻変動により隆起し、そして繰り返し岬に波がぶつかり、長い年月をかけて削られた断崖です。この白亜の断崖は別名「東洋のグランドキャニオン」ともよばれています。
岬のすぐ南側には「悲恋塚」という、天保年間、結ばれずに心中した恋人同士をしのぶために建てた石碑があります。

突符岬(とっぷみさき)
道の駅「ルート229元和台」の手前に平成2年(1990年)の建設で元和台海浜公園があります。
突符岬の上が公園になっており、ちょうど北緯42度に位置するため「北緯42度岬」とも呼ばれています。公園は広く海岸には海のプール等の施設があります。ビーチやトイレ・更衣室がバリアフリーになっており、海までスロープを設置。水陸両用車も用意しています。環境省の快水浴場百選に道内で唯一選ばれており、施設自体が防波堤となっているので安心です。
「とっぷ」の由来ですが、「(土地が)隆起する」と言う意味にも使われるようです。
もともとは「突符岬」の北側の地名だったものが、「突符村」が成立した関係で南側の「ヲモナイ」の近くの地名となり、地名に引きずられて「ヲモナイ」という川名が「突符川」と名を変えて、源流部の山の名前(突符山)になったようです。

穴澗岬(あなまみさき)
道の駅ルート228元和台の展望台からの沿岸景色が見事です。
この海岸道りを油絵で描いています。道の駅の下を走る道を北へ進むと穴澗岬があり、近くまで車で行けます。穴澗(あなま)は細い・澗「アナマ」は道内各所で見られる地名で、函館に「穴澗海岸」という観光スポットなどもあります。
共通点としては、「アナマ岩」や「アナマ岬」のように岩礁、あるいは岬状になっていることが多く「細い・澗」といった解釈ではないかと思われます。
また、道の駅には変わったモニュメントがあります。
解説を読むと19世紀ごろ元和地区に3人の漁師が住んでいました。ある日、船でこんぶ漁に出かけた3人は嵐に遭い、ダッタン国(現在の中国吉林省)に漂着してしまいました。彼らはその国の役人の指示に従って国内を移動し、当時の宮殿「紫禁城」(しきんじょう)でやっと日本に帰国する許可をもらいます。当時は鎖国していた日本のこと、船で長崎についた3人は長崎奉行で厳しい取調べを受けます。大変な思いをした3人は、北前船に乗って約2年半後に乙部に帰ることができました。

鮪ノ岬(しびのさき)
鮪(まぐろ)と書いて「しび」と呼びます。しびとはマグロのことです。
「しびの岬トンネル」を抜けて少し行くと左手に駐車場があります。
国道沿いから約450メートル日本海に突き出た岬で、岬の岩がマグロのうろこのように重なっているところから、この名前がついたといいます。輝石安山岩からなる柱状節理で、地中から噴き出した溶岩が縦と横に流れ出し、一緒に冷え固まって柱状の束が縦横にできました。一帯は檜山道立自然公園になっており、青鳩の生息地をはじめとする数多くの野鳥の楽園となっています。昭和47年(1972)に北海道の天然記念物に指定されました。

「灯台になった八助じいさん」の伝説
鮪の岬の北側の漁村が蚊柱村(かばしらむら)と呼ばれていた頃、村に八助(はちすけ)という物知りじいさんが住んでいました。
じいさんは若い漁師たちが漁に出ると必ず岬でちょうちんを持ち、灯台の役目をしていました。ある吹雪の夜、漁に出た漁師たちのために、いつものようにじいさんは岬に出かけました。翌朝、漁を無事に終えて戻ってきた漁師たちが鮪の岬でちょうちんを握り締めたまま寒さで死んでいるじいさんを発見。
(じいさんの優しさを忘れないよう、今も語り継がれている伝説が残されています)