箱館奉行所は西洋技術を取り入れたり、出貿易を計画したりと積極的に蝦夷地政策を展開しました。

農事についても外国人の招聘を行いましたが、庵原函斎(いばらかんさい)の存在が大きくあります。彼は、松前奉行から仕えていた人物で、安政2年(1855)に志願して箱館に近い銭亀沢を開墾、水田・畑作にも効果をあげ農民を増やしました。箱館奉行所はこれを認めて官営の御手作場(蝦夷地に設けられた江戸幕府経営の開墾地)として各地に官営農場を創設します。
なかでも、二宮尊徳の出馬を請うたが老齢のため、代わりに任命されたのが大友亀太郎です。報徳仕法の開拓は、その後部分的にせよ北海道に残ったといえます。大友亀太郎については、「北海道ゆかりの人々」で書きましたのでそちらを参照してください。

文久2年(1862)には箱館付近に11カ所の御手作場で農民300人、長万部付近4カ所340人、岩内や石狩方面にもいくつかの御手作場ができました。
御手作場の募集移民には、旅費・食糧・家屋などの保護を与えましたが、移民の質は必ずしも良好とはいえず、浮浪者が多かったようです。

登別温泉の「第一滝本」の創始者滝本金蔵は江戸の大工職人でした。
1858年(安政5年)、32歳で幕史の新井小一郎に誘われて長万部へ来道します。8月に幌別(登別)の駅逓所建設に携わっていくことで移住しました。
その頃、妻はひどい皮膚病に悩んでおり、登別温泉の噂を聞きつけ金蔵は山道を分け入って温泉にたどり着き、皮膚病治療のためのささやかな湯小屋を作り湯治をさせると、みるみる病状が良くなりました。
滝本金蔵も北海道ゆかりの人々に書いてあります。

写真は北斗市にある水田発祥地の碑