松前徳広(まつまえ のりひろ)
慶応2年(1866年) ~ 明治元年(1868) 享年25歳。
天保15年(1844年)11代藩主・松前昌広の長男として福山城にて誕生。松前崇広(たかひろ)の養子となり,慶応2年(1866年)4月に崇広が死去したため、家督を相続し22歳で松前藩主13代目となります。
明治元年幕府脱走軍の来襲で津軽にのがれ、明治元年11月29日死去。25歳でした。主君は徳川慶喜
肺結核かつ重度の痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れず、専横への不満が藩にくすぶっていました。
また藩は新政府方と奥羽越列藩同盟にそれぞれ遣いを立てる日和見政策を取っていたため、藩内の両派閥の不満もありました。
藩主となった年の11月に、徳広は藩主を退く発言をしました。藩を主導する筆頭家老の松前勘解由らは崇広次男の敦千代(松前隆広)の後継擁立を画策します。しかし、勘解由の執政に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任・蟄居となりました。ただし勘解由抜きでは藩政はままならず、慶応4年(1868年)4月には家老に復帰。
慶応4年(1868年)7月、鈴木織太郎ら尊皇派の40名余の家臣団らが蜂起しました。箱館の新政府方と連携し、正義隊を名乗って徳広に対し建白書を提出、佐幕派の一掃と勤王への転向を強要します。
徳広はこれを承諾したため、慌てた家老の松前勘解由は急遽登城しようとしますが果たせず、集まった1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫から武器を出し、松前城の東にある法華寺から正義隊が立て籠もる城中への砲撃を企図するが、君臣の分を弁えよと説得され思いとどまりました。
翌29日に勘解由は家老を罷免されます。
8月1日に正義隊は佐幕派重臣らを襲撃、勘解由も屋敷を襲撃されるがこれは撃退しますが、8月2日に自宅禁固となり、8月3日、勘解由は切腹となりました。
その他重臣の多くは正義隊の思うままに処罰され、正義隊により新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され、人材の新たな登用なども行なわれるなどしたが、藩内は著しく混乱しました。
この状況の中、藩は箱館戦争を迎えることとなります。