幕府の開国は消極的なものでしたが、箱館奉行所の竹内保徳・堀利煕、さらに村垣範正・津田正路は、連名で清国およびロシア領への出貿易と研究調査を建議します。
また、安政6年(1860)に教授武田斐三郎(後に五稜郭を作った人)の指揮で蝦夷地産物を箱館丸に積み込んで、学生を同船させ航海実地訓練をかねて日本海一巡、産物を売っては研究の資金を稼ぎ、帰途には宮古の溶鉱炉の見学もしてきていました。
この箱館丸は、箱館に入港する西洋船をみて、独力でスクナー型洋船を建造したもので製作者は続豊治(高田屋嘉兵衛が育てた船大工)です。幕府は、しぶしぶ許可をしますが、箱館奉行所は清国の上海におもむき、出貿易を試みたのです。(武田斐三郎については、北海道ゆかりの人びとに書いてあります)
武田斐三郎は伊予大洲藩士の蘭学者で、村垣範正・堀利煕の蝦夷地巡回に随行していました。武田はそのまま幕臣として登用され新設の諸術調所教授に就任したのです。
箱館に入港する外国船について、船や砲台・器具の製造などの研究を深め、学生に指導していました。入学者は幕臣や藩士にとどまらず、広く門戸を開放していました。
学生の中には、明治に入って郵便制度の生みの親前島密、鉄道の父井上勝、航海者蛯子末次郎らの秀才が集まっていました。武田を慕って箱館にきたが、彼が江戸に行って不在であったために、福士成豊の援助を受けてアメリカに密出国した上州安中藩士新島譲のような青年もいました。
福士成豊は、船大工続豊治の子で、のちに気象学などで北海道に貢献した人物です。
写真は五稜郭内にあった箱館奉行所を再現したものです