シベチャリ川(静内川)の中州には陣幕がしつらえてありました。

シャクシャインの出した撤兵の条件を、総大将松前泰広はためらわず、「百人ほど残して撤兵しよう。そのかわり、砦の手勢もこれに見合う数にしてもらいたい」としたたかに要求してきます。

「しかし、手勢の数を同じでは勘定があいますまい、鉄砲つきの100人では当方は1000人でも不十分。鉄砲は10人に1丁。それなら援軍の男たちを返す」
条件を詰め、松前弥左衛門はこれを了承し、和睦をととのえ終えました。

2日後、松前勢は1陣だけのこして、軍をひきあげさせます。
シャクシャインはそれを見届けて援軍の男たちを返し砦の警備をゆるめます。
半年にもわたる戦いの緊張から解放された男たちは、酒を酌み交わし喜びをともにしていました。 

10月23日の深夜のことでした。男たちは祝いの酒に酔い、それぞれの小屋で眠っていました。その砦に、西の総首長ハロウらが手引きして蠣崎蔵人たちの奇襲隊が入ってきました。砦の柵をやすやすと破って侵入し小屋にたいまつの火をはなします。火煙におどろいた男たちが飛び出すところを槍や刀が容赦なく襲います。

物音に気付いて夜具をはねのけたシャクシャインは、槍をひっさげて絶叫。

「よくもあざむいたな。和睦を結んでおいて襲うとは、言語道断。卑劣このうえない」

奇襲隊に突進していくシャクシャインがのけぞって倒れたところに、銃弾がくいこみます。力の限り槍をふるったが、矢をあび、刀をあびせられ、すさまじい最後を遂げました。

シャクシャインの砦は、翌10月24日に松前勢の手で焼きはらわれました。

松前泰広は、藩にそむいたアイヌや松前藩家臣のひとりとして許さず、とらえたアイヌ軍参謀の鷹待庄太夫は火あぶり、ほかの3人の和人は討ち首になりました。また、シャクシャインや主謀者十数人のなきがらを、70数名の捕虜とともに松前へおくられますが、誰一人としてシベチャリに還されることはありませんでした。 
                          (シャクシャインの戦いおわり)

シャクシャインの最後については、様々な説があります。
松前藩が開いた宴会でしたたかに酔わせたところを襲ったという説もあります。また、殺害された場所は三カ所あり、一つはシャクシャインのシャチ、二つ目には静内川の中州に開いた会場、もう一つは現在の新冠の判官館森林公園です。
いずれにしても、酔わせて殺すは松前藩伝統の作戦でした。
写真は「紙芝居」を使わせてもらいました。