美瑛の由来はアイヌ語「ピイェ」〔油(転じて油っこい)〕からとされ、現在の美瑛川に十勝岳からの硫黄が溶けこんで濁っていた様を表現し「美しく、明朗で王者の如し」という意味を込め「美瑛」と当て字されました。
江戸時代の末期(安政4年)幕府役人が初めて美瑛川を調査。
明治27年に初めて辺別太(旭)に入植。
明治33年に神楽村から分村し美瑛村となりました。十勝岳連峰に抱かれた美瑛町は、江戸時代末期からこれまで5回にわたって十勝岳の噴火による災害に見舞われてきました。
美瑛町は、面積が東京23区の広さに匹敵し、その70%以上を山林が占めています。また、約15%を畑地が占め、これを中心に「丘のまち」の美しい景観を形成しています。
現在多くの観光客で賑わう美しい丘の風景は、十勝岳の噴火によって火山灰と土石流が堆積し、それらが数多くの河川に長い年月をかけて侵食されることで、波状丘陵という地形を形成しました。
美瑛農業の歴史
旭地区で農業ははじまり、水場の近くに家を建て、水を引くことができる平坦な沢地には水田を、丘の傾斜地を畑に開墾しました。
当時から昭和40年代まで、農家の生活に不可欠だったのは馬。農作業はもちろん、買い物や運搬も馬そり。
昭和58年には輪作がはじまり、じゃがいも、ビート、豆、小麦など、植える土地を毎年変える仕組みになることで、丘の風景も毎年変わるようになりました。
前田真三という写真家
昭和46年に風景写真家の故・前田真三氏は、初めて美瑛を訪れました。
丘の風景を目にしながらヨーロッパを思い起こし、日本の風景とは異なる新しい風景を見つけられたそうです。
代表作「麦秋鮮烈」以外にも多くの写真を残し、その写真が美瑛を観光のまちに変わるきっかけを作り出したのです。
北海道での活動の拠点として作られた拓真館は、現在もたくさんの作品が展示されています。