美幌アイヌ
美幌のアイヌの人たちは網走川・美幌川の流域の豊かな資源と阿寒地帯の狩猟によって生活をしていました。
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明治20年に美幌外5カ村戸長役場が、元町(現在の字元町)の丘の上に建てられた時には鹿児島出身の戸長野崎政長の一家3人以外はアイヌ人15戸93人が居住するだけでした。(元町はJR美幌駅の南方にあたります)
明治27年に開拓の志を抱いて名古屋の青山三七が入植しました。
本町における和人の定着のはじまりでした。
彼はアイヌ人相手に皮革取引の傍ら農業を営み、6年後の明治33年に駅逓が設置されると管理人になりました。
一方アイヌ人は捕獲・採取が容易に許可されなくなり、野崎は古老と相談し全員を明治24年に戸長役場のそばに集め、耕地を無料交付しました。
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大正期から製麻工業が盛んになり、大正10年に操業を開始したのは帝国製麻、大正製麻の工場も稼働し活況となりましたが、その後大正製麻は閉鎖、他も昭和37年に閉鎖しました。
戦後はビートも栽培され、昭和34年に日甜美幌製糖所が完成しています。