砂川(すながわ)市名の由来は、アイヌ語のオタ・ウシ・ナイ(砂浜・についている・川)を意訳したもので、これを音訳した地名が「歌志内」です。
明治19年、上川道路(現国道12号)の開削がおこなわれ、砂川は旭川方面と歌志内炭鉱方面との接点で中継地の役割となり、三浦米蔵が空知川河畔で渡船場と旅館を開業したのが、砂川移住の始まりでした。その後旅館は滝川側に移っています。
明治21年、鳥取県の岡本栄蔵は北本町で飲食店と宿を始め、砂川市街地移住の始祖と言われています。
長野県人の浅田三津次は南空知太で物品販売を行い、後に村総代や初代砂川郵便局長を歴任。また駄馬の沢で自作農の育成や農業経営の指導にも当たりました。
明治23年、歌志内炭鉱が開かれ、その坑木用の木材が筏に組まれ、川を通じて砂川に送られるようになります。その翌年には鉄道が開通し、さらに活況を増してきました。明治33年には人口9千人に達します。
大正4年、三井砂川炭鉱が開坑。
エネルギー革命の影響による企業の合理化や相次ぐ炭鉱の閉山、JR歌志内線の廃線などもあり人口は減少しますが、道央砂川工業団地・焼山工業団地を設置し、企業誘致を積極的に行っています。
赤穂浪士の墓
昭和7年、南空山泉学寺の寺号を得、後に改称した北泉岳寺には、初代住職が赤穂浪士の精神に感動し、東京の泉岳寺の許可を得て建立した四十七士の墓があります。
墓石は同寸で文字も拓本でとり彫った本格的なもので、毎年12月14日には義士際を行っています。
砂川スイートロード
かつては石炭産業で栄えた砂川ですが、今は市内に菓子店が多いことから国道12号線沿いにお菓子屋が点在し「砂川スイートロード」としてPRしています。
ケーキ類、和菓子類、パン類、冷菓類などを作っている18事業者が20店舗を構えており、創業100年を超える老舗や全国的な知名度を持つお店など特色の違うさまざまなお菓子屋さんがあります。