滝川(たきかわ)市名の由来は、空知川の語源であるアイヌ語のソーラプチペッ(滝のある川)を意訳したことによります。
昔は、石狩川と空知川の合流するところ「ブト」の意味で、「空知太」と呼ばれていました。

明治19年、樺戸集治監の囚人を使い、市来知(三笠)~忠別太(旭川)までの22里14町の仮道路(現国道12号)の開削を行いました。
これに伴い、京都出身の道庁一等属高畑利宜は道路測量をし、山形県人三浦米蔵は工事関係者に物資を供給するために来往し、明治22年空知太に駅逓が設置されると高畑は取扱人となり、三浦は空知川渡船の認可を受けて代理人村上正治を常駐させ、2人は旅宿や物品販売、更に高畑は酒造りも行いました。

同じ明治22年に山形県上田文助も入地し石狩川で渡船を行います。
大分県の江藤恭太郎も石狩川汽船の荷扱いを始め、交通・運搬の基盤が出来上がりました。
この年には屯田兵屋が440戸建設され、奈良県十津川郷の住民が洪水災害のため移住し、ひと冬を屯田兵屋で仮住まいしました。この時に屯田兵としてそのまま残った者も92戸ありました。

明治23年、滝川村が誕生。

菜の花畑

明治25年、鉄道が岩見沢から空知太まで延長され、それによって開発も進みましたが、しばしば水害に悩まされます。特に明治31年の被害は大きく、被害者の中には将来有望といわれた旭川に転居する者もありました。
中空知地域の中心都市として発展し、周辺の市町村よりも人口が多い。

現在は中心市街地を通っていた国道12号線が、郊外のバイパスとなりロードサイド店が相次いで造られたため市街地の衰退が進んでいます。
石狩川河川敷にグライダー飛行場を建設し、グライダーによる町おこしが行われています。