とうや湖ぐるっと彫刻公園
支笏洞爺国立公園「洞爺湖」は、周囲36キロのカルデラ湖で、北に羊蹄山を望み、南東に火の山・有珠山、四十三山、昭和新山。
そして南西には噴火湾(太平洋)が広がります。
洞爺湖畔には湯量豊富な洞爺湖温泉街があり、年間400万人以上の観光客が訪れる北海道最大の観光リゾート地でした。
しかし、昭和52年8月7日、昭和新山形成以来、有珠山は33年間の沈黙を破って、大噴火を伴う火山活動を開始しました。
それ以降、ふもとの虻田町や近隣市町村は、火山災害対策で戦場と化したのです。
観光客大幅に減少
年間400万人以上の入り込み観光客数の洞爺湖温泉は噴火以来、宿泊客が大幅に減少。観光産業中心の三次産業が七割を占める虻田町は大打撃を受けました。
洞爺湖温泉町の人口は、噴火当時の五千人から三千人に減少。
さらに、有珠山噴火では人的被害はなかったものの、翌53年9月の土石流災害で三人の犠牲者を出しました。
北海道立教員保養所は、有珠山噴火で閉鎖したがかつての患者らの募金によって記念碑を建立することとなり北海道出身、イタリア在住の安田侃氏に依頼し、大理石の彫刻「回生」という記念碑が59年、洞爺湖畔に建てられました。
また、有珠山噴火の土石流災害の犠牲者となった3人の慰霊碑を建立することとなり、同じく安田侃氏に依頼し、住民の募金で災害から十年後の63年に大理石の彫刻「意心帰」が完成し、慰霊祭が洞爺湖畔で行われました。
この二つの彫刻が設置されたことから「とうや湖ぐるっと彫刻公園」構想が生まれたのです。
中堅作家など条件
「彫刻公園」は洞爺湖を囲む虻田町(あぶた)、壮瞥町(そうべつ)、洞爺村(とうや)の三町村の共同事業として行うこととなり、委員は三町村の町村長、議会議長、教育委員長、教育長、北海道胆振支庁地方部長、同胆振支庁振興課企画室長で構成し、「とうや湖ぐるっと彫刻公園設置委員会(会長虻田町長)」が平成元年に設立されました。
彫刻作家の選定には、顧問に北海道立三岸幸太郎美術館館長、北海道立近代美術館館長を、作家選定評価委員に北海道立近代美術館学芸部長、同館学芸第一課長、札幌芸術の森美術館副館長。
作家選定としては、現に活躍している将来性のある中堅作家であること、彫刻作品は洞爺湖周辺に半永久的に展示に耐えうる素材であること、作品の大きさや色彩、設置場所については国立公園地内であるため、自然公園法に合致することを条件としました。
作家と自然の対峙が湖畔に瑞々しい魅力と感動の空間をつくりました。
「人と自然がふれあう野外彫刻公園」として、湖畔に全58基を配しています。