北海道の先史を知る上で江別は重要な地の1つです。

江別では後期北海道式薄手縄文土器(後北式土器)が多く出土し、日本先史の権威である山内静男はこれを江別式土器と名づけ、この土器が使われた文化を「江別文化(後北文化)」と呼びます。

その後、7世紀から9世紀ごろに築かれた「江別古墳群」もこの地で発見されています。
江戸時代には、松前藩によって石狩十三場所が開かれ、このうち上ツイシカリ場所と下ツイシカリ場所が石狩川左岸、現在の世田豊平川合流地付近に位置していました。
これら場所と呼ばれる商場は、幕末ころまで存続していたのです。

現在の江別市に和人が定住したのは
1867年に通行屋(旅行者のために宿泊、休憩の場を提供した)の立花由松が住んだのが最初とされています。
1869年、北海道11カ国86郡が置かれ、現在の江別市に相当する地域は石狩国札幌郡に含まれました。

1871年、陸前国遠田郡馬場谷地村(現宮城県遠田郡涌谷町)の農民21戸76名が対雁(ついしかり)に来たのが集団入植の始まり。
1873年開拓使開墾掛に換地を願い出て受理され、19戸70名が札幌郡雁来村へ 再入植するに至り、跡地は榎本武揚の農場となりました。

1878年(明治11年)8月に江別太(現在の王子地区周辺)に屯田兵村が置かれ、同年11月に江別村が誕生。
1881年にも養蚕を営む屯田兵が入植したが、これらの試みは成功しませんでした。
1882年、官営幌内鉄道が開業し江別駅が設けられると、石狩川水運と鉄道輸送の結節点として市街地が形成されました。
1884年以降3年間にわたり屯田兵432戸が入植し、開拓事業にあたりました。
また屯田兵以外の人々による開拓も多くありました。中でも大きな成果を挙げたのは新潟県人による北越殖民社で、1886年に江別太へ17戸、1890年には野幌南部へ204戸の入植を果たし、稲作を成功させます。明治の中ごろになると工業が芽生え始めます。
1891年に江別太で煉瓦工場が操業。
1908年には富士製紙会社北海道工場(現:王子特殊紙江別工場)が操業を開始。労働者も多く住むようになり、1916年には町制を施行。

第二次世界大戦後には引揚者を積極的に受け入れ、また戦後復興にも力を注ぎ人口は伸びていきました。

1953年(昭和28年)5月23日に市街地の半分を焼く大火を出しながらも、翌年には市制を施行。

1963年に東野幌に炭鉱離職者団地、翌年道営大麻団地が建設されると宅地化が進行、札幌の衛星都市としての性格が強まりました。