もり町名の由来はアイヌ語のオニウシ(樹木の多くある所の意)の意訳です。 道内の町で、唯一、「ちょう」ではなく「まち」と呼ぶ自治体です。

1601年上磯の有川から鷲ノ木に千歳末吉が定住し、漁業の傍らアイヌ人や出稼ぎの漁を取り仕切る浜名主を務めていたといいます。
1615年、尾白内に吉田作兵衛が移住、1600年代半ばには定住者が増え、村落が形成されていました。

ニシン漁で栄え、1757年にこのあたり一帯が豊漁となるが漁粕にする製法がなく、多くのニシンが加工できないまま土中に埋められ、その供養塔が本茅部町に残されています。
その後、箱館6ケ場所が設定され、その中の茅部場所にこの地が含まれていました。幕末には畑作もおこなれ、鷲ノ木では米も試作されていました。

鷲ノ木

明治に入り、榎本武揚の率いる旧幕府軍が鷲ノ木に上陸し、箱館に向けて移動し箱館戦争となりましたが、翌年降伏しました。

その後、函館~札幌間の道路も開削され、官有未開地の払い下げも始まりました。三重県の青木喜三郎が明治24年に3250坪の賃下げを受け、翌年開墾に着手、農耕の他、酪農や養鶏を採り入れ開拓を進めました。

明治30年、濁川に入植した大場又二良により地区の発展に貢献。
明治37年、函館~札幌間の鉄道も開通しました。
大正9年、日本初の本格的な冷凍工場が港町で操業を開始しアメリカ製の冷凍機により沿岸の魚を冷凍して出荷。
日本冷凍食品事業発祥の地として記念碑も立てられています。

濁川温泉

濁川温泉

濁川温泉は古くから湯治場として利用されていました。

1807年加賀屋左衛門が道を開き、新たに湯治場を整備は開設したのが始まりで、現在は5軒の温泉旅館があります。

昭和57年に地熱発電所が稼働し、農家では温泉熱と地熱を利用したハウス栽培でトマト・キュウリなどを産し、冬場の野菜の供給も可能となりました。

 

 

いかめし

函館本線森駅の駅弁調製業者だった阿部弁当店が、1941年(戦時中)に食糧統制で米が不足していたために、当時豊漁だったスルメイカを用いて米を節約しても作れる料理として考案されました。

いかめし

1966年に京王百貨店で『第1回元祖有名駅弁とうまいもの大会』が行われ、阿部弁当店はこの大会に烏賊飯を出品しました。
第2回には早くも売り上げ1位となり、以後同大会をはじめとする「駅弁大会」の常連となります。
このため、「いかめし」は森町名物あるいは北海道名物として全国的に知られるようになりました。