上磯町は大野町と2006年2月1日に合併し新市名北斗市となりました。
上磯町は 渡島支庁で函館市に次いで人口の多かった自治体でした。なお、上磯町役場は北斗市役所の所在地となっています。
1457年に起きたアイヌとの戦である「茂別館跡」が茂辺地に残されています。
この茂別館は津軽の安東氏が15世紀半ばに南部義政に攻められ、蝦夷にわたった際、築いた館です。政季の時代に秋田小鹿島に復帰し河北郡を手に入れます。
それに際して舎弟である家政に茂別館、福山(松前)の大舘を安東定季、上ノ国の花沢館を政季の婿である蠣崎季繁に守護させました。
その後、コシャマインの乱が起き、茂別館と花沢館以外は討ち破られてしまいます。この時に蠣崎の所に居候していた武田信広が鎮圧。功績を認められて蠣崎家の婿養子となりました。
武田(後の蠣崎)の一族は、この蝦夷地の支配を安東一族から奪い取る策略を立てていました。武田信広の子である光広の謀略ともいわれていますが、アイヌの放棄により福山(松前)の大舘が落城し光広が安東氏の代官となり、松前が行政・経済の中心となりました。
江戸時代からすでに、ある程度の集落ができていました。
外国船が来航するようになると、蝦夷の各地に陣屋が設けられます。
戸切地(へきりち)にも松前藩陣屋が設置されました。
この陣屋が箱館戦争には旧幕府軍に攻められた新政府軍が自ら火をかけ撤退し、今は土塁だけが保存されています。
トラピスト男子修道院
明治29年、トラピスト男子修道院が創設。
9名の修道士で始められ、翌年フランス人のプーリエ神父が着任。
明治33年帰化して岡田普理衛と名乗り、2年後にはホルスタイン種を輸入し、酪農の発展にも寄与しました。
男爵資料館
明治39年、函館ドック再建のため来道した、男爵イモの生みの親川田龍吉がこの地に別荘と農場を所有。
跡地には資料館が建てられていますが、現在閉館しています。